相手に伝わる語り口を選ぶ
こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。
職業柄気になって、ずっと前に買ってあった本にようやく目を通しました(笑)
「現役大学生が書いた」とあるように、中高生から見て「ちょっと先輩」という立場の人たちが、彼らの勉強についての悩みに対して「自分たちもそうだったよ!」と共感をベースにしながらアドバイスするような雰囲気の本でした。とても読みやすいと言えば読みやすい、軽いと言えば軽い(笑) そんな本。
文章も基本的にはTwitterやYouTubeのような、ちょっと面白おかしいカジュアルな語り口で、時には「え、ほんとにそれでいいの?!」っていうようなアドバイスも書かれています。たとえば「計画倒れしちゃう!」という「あるある」なお悩みに対して、「できない計画ならいっそ立てない!」とかみたいな(笑)
大人からすると、特に親や教員からすると、「いやいや、それじゃあかんやろ!」とツッコみたくなる部分も織り交ぜながら、きっとこれもまた中高生の共感を得るための著者の「計算」なんだろうな~と思って読みました。
文章の中に「!」が多用されていたり、文末に笑いを意味する「www」が使われていたり、「とかね」「~なんですよー!」などの口語表現が頻出したりすると、つい「こういうのはお手本とは言えない文章だから、率先して読ませるのはいかがなものか」などと思ってしまうのが教員の性(?) けれども、こういう「軽薄」とも思われる文章だからこそ、中高生にとっては「軽妙」で、手に取りやすい、耳を傾けてみようと思える本になっているんだろうなぁ、と思いました。
「教員」という立場にこだわると、私自身の「教員らしさ」を保とうとすることにウェイトが置かれます。そうすると、教員として相応しい振る舞い、言葉遣い、思考回路みたいなもので、知らず知らず自分を縛ってしまう部分が出てきます。でもそれは「教員らしい」物言いだったり考え方だったりするので、生徒さんから見ると「説教くさい」ものに感じられたり、敬遠されがちだったりするわけです。
生徒さんに本当に耳を傾けて欲しいと思えば、やはり彼らに「届く」物言い、言葉選びをする必要があります。私は教科の特性上複数の学年をまたがって担当することが多いのですが、中高併設校である我が職場で言えば、中学一年生向けの物言いと、高校三年生に対する語り口では、やはり大きく変えるべきです。そういうことを考えると、「教員らしい」態度や語りが意味を持つことも否定はしませんが、「それぞれの年齢の、立場の、生徒さんに届く話し方」をきちんと研究し、実践していく必要もあると思うのです。この本は、その辺りをきちんと押さえて書かれたのだな、ということを感じました。
冒頭に引用した聖句は、使徒パウロが記したとされる言葉です。パウロという人は元々「ユダヤ人らしいユダヤ人」でした。ところが、キリストと出会ったことでパウロは、「ユダヤ人らしい自分」すなわち「律法に忠実である自分」から解き放たれていきました。さらに別の次元の「掟」に基づいて生きる、「キリストに生きる、新しい自分」へと生まれ変わったのです。
ですがそのパウロが、ユダヤ人の間でキリストについて宣教する際には、「ユダヤ人らしい振る舞い」をするよう努めたということを語っています。その方が、自分の言うことが相手のユダヤ人に受け入れてもらいやすくなるからです。もし彼が「ユダヤ人として律法を守ることから解き放たれた」振る舞いをすれば、それが却って障壁となり、目の前のユダヤ人たちが彼に対し「どうせこの人は自分たちとは違う人だから」と、聞く耳を持ってくれないかもしれないからです。
そしてパウロは、「律法を持たない人」、つまり異邦人と出会う時には、「異邦人らしく」振る舞い、「弱い人」に対しては「弱い人のように」寄り添って語る……というのです。いずれも「相手のため」、「相手が自分の伝えることを受け入れてくれやすくなるように」ということです。
どんなに赤ん坊のことを愛していても、「栄養があるから」「おいしいから」と言ってステーキを与えるわけにはいきません。その月齢に合った食べやすいものから与えていくのが正しい愛し方、育て方です。
同じように、自分のやり方に固執し過ぎることなく、「相手に伝わる話し方はどのようなものか?」ということをきちんと考え、それを取り入れながら授業や礼拝説教に臨まねばならないな、ということを改めて思ったのでした。
というわけで、You Tuberとかはやっぱりすごいぞ! 授業で真似できるとは思えないけれど、見習っていく姿勢は持っていたいと思います(笑)