待つことは信じること
こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。
夏に体重が増えてしまったのですが、なかなか落ちません。
まあ別に今めちゃくちゃ一生懸命節制している……というわけではないので仕方ないのですが。それでも晩酌のビールはやめてみたり、昼間の間食は我慢したり、それなりに気を付けているつもりなのにあんまり変わりません。「何やったら変わるんだ?」「ほんとにちゃんと痩せるのか?」と、体重計に乗る度むすっとしてしまうこの頃。
「今日おやつを食べなかった」→「痩せた!」
「今日ビールを飲まなかった」→「体重落ちた!」
と、結果がすぐに出るならこんなに楽なことはありません。ぶすぶすくすぶる気持ちも味わわずに済みます。
でも、「原因と結果」の間にはタイムラグがあるし、そのため「自分が仕掛けた原因」が「自分が望む結果」に繋がるかどうかの検証も、すぐにはできない。ビールをやめることが本当に効果を生むのかどうかは、しばらく続けて待ってみないと分からない。
かといって、「どうせビールやめても痩せないじゃんね~」と、今やりかけたことをやめてしまったら、「望む変化」は確実に訪れない……。
結局のところ、「いつか結果が出ると、信じて待つ。やり続ける」ということしかないんですよね。
「待つ」ということは、「今目の前に無い結果」が「いつか来ると信じる」ということです。
携帯電話が普及して、「待ち合わせ」がなくなったな~と思います。
私が高校生の頃くらいまでは、「何月何日何時にどこそこで」と約束して待ち合わせをすることがよくありました。
仮に何かの理由で相手が遅れても、「ごめん、乗り遅れた、何時何分頃には着くから待ってて!」なんていう連絡は取れません。「来ないな……」「どうしたのかな……」と思いつつ、「いや、きっともうすぐ相手は来る」と信じて待つしかありませんでした。今の生徒さん世代には想像もつかないかもな~。
昔何かの教材で読んだ文章で、「エレベーターの扉が自動で閉まるまで待てない」という話がありました。
エレベーターの扉が「開いて、閉まるまで」の時間って、実は10秒も無いことが多いみたいです。でも多くの場合、エレベーターに乗り込んだ人は行き先階ボタンと立て続けに「閉」のボタンを押します。
別に悪いことではないのですが、「たとえ数秒であっても、結果が出るまでの時間を待てない」という私たちの姿を思い巡らす、分かりやすい例であるとは思います。
「待つ」ってしんどいですね。だって先述の通り、「今は目の前に無い」ものを「信じる」のですから。望む結果を思い描く想像力や、きっとそうなるはずだと強く念じるエネルギーが要ります。
「明らかに分かっていること」は、「信じる」必要がありません。
目の前にあるりんごを見て、「このりんごは赤いと信じる」とは言いません。今目の前にあって、その事実は「すでに確かめられて」いるから、「信じる」余地が無いんです。
でも、「このりんごは甘いと信じる」と言うことはできそうです。まだ食べていないのであれば、そこには「未だ確かめられない」味わいがあって、期待される甘さがあって、その望ましい結果がこの後自らの身の上に訪れるところまで「待つ」部分があるからです。
「待つ」ということは「信じる」こととセットなんですね。
「待つ」ことの先に「信じるもの」がある。
「信じる」からこそ「待つ」ことができる。
キリスト教会は今「待つ」季節を過ごしています。
「待降節(たいこうせつ)」、主イエス・キリストの降誕を待ち望む、クリスマス前の4週間です。「アドベント」とも言いますが、こちらの方がすでに多くの人にとって耳に馴染んでおられるかもしれませんね。
救い主が来る。今は暗く寒い夜だけど、希望の灯としての救い主はきっと与えられる。
そんな風に、「信じて待つ」のがアドベントです。
私が携わる教育の営みにおいても、「待つ」というのはとても大切なことだな、と思わされます。
すぐには結果が出ないのが教育です。
生徒さんの中にある「種」、その力を「信じて待つ」。
早く結果を出したくても、水をやり過ぎれば根が腐ってしまうかもしれないし、日に当て過ぎれば枯れてしまうかもしれない。焦らず、必要と思われる最低限のものを粛々と差し出し続けながら、やがて芽生える時、花開く時、実る時が来るのを「信じて待つ」。それしかないんですよね。
アドベントのこの時、「待つ」ことの大切さと共に、「信じる」力を大事にできるようにと願います。
……とは言ってもせっかちクドウ、早くちょっとは体重減ってくれないと、もう諦めてビール飲んじゃうよ~?!(好きにしなさい)(呆)