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罪を憎んで人を憎まず

そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

新約聖書 ヨハネによる福音書 8章3-11節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

SNSを通じていろんな情報が入ってきたり、新たな知見を得られたり、思わぬ出会いが与えられたり、アナログ人間だった私も大変これにお世話になっています。最近ではBTS関連の情報は先輩ファンの皆様の親切な情報拡散に頼り、「あれを録画しなきゃ」「新しくYouTubeに動画が上がったようだぞ」「これの申し込みはどうしたらいいのか」などと様々に助けていただいています。

一方でSNSには「炎上」というのも付き物なのか、たま~にそういうのを見かけると何となくこちらも煤まみれになったような、薄暗い気持ちになってしまうこともあります。私がフォローさせていただいている皆さんは基本そういうのとは距離を置いておられるようで、これは本当にありがたい限りですが。

「正しいこと」を言っている人たちが束になって誰かを糾弾する。そこに「間違い」は無いのでしょうけれど、どうしてこんなに「美しくない」のかな、と不思議に思います。そう、「正しい」ことは「美しい」とは限らないし、もっと言えば「善い」とか「温かい」とかとは離れてしまうことさえあるのですね。

今日引用したのは、「姦淫の女」の話と知られる有名な聖書箇所です。

姦淫の現場で捕えられた女性が、当時のユダヤ教指導者たちによってイエスの前へ連れて来られます。そして彼らはイエスに尋ねます。「掟ではこういう女を石打ちにするよう決まっているが、あなたはどう考えるか」。

これはイエスを告発するための罠でした。もしイエスが「許してやれ」と言うのなら、イエスは掟に背くことになる。「石打ちにすべきだ」と答えるなら、これまでイエスが語ってきた愛の教えと齟齬が生じてイエスの人気は失墜する。イエスを敵視していた彼らとしては、なかなか上手い作戦です。

ところがイエスはそれに正面からは取り合わず、かがんで地面に何か書いている。何を書いていたんでしょうね。想像するしかありませんが、私はさして意味のあるものを書いていたようには思えません。「やれやれ」という感じでやり過ごす空気を感じます。

「どうなんだ?!」としつこく詰め寄る彼らに、イエスはよっこらしょと身を起こして答えました。「じゃあ、あんたがたの中で、罪を犯したことの無い者がまず石を投げたらどうだ?」(やれやれ感を漂わせたイエスさまは、こんな感じで仰ったのではないかというクドウの脚色です(笑))……結局、イエスを告発し、この女を懲らしめようと集まっていた者たちは、一人また一人とその場を立ち去って行ってしまったのでした。

そう、誰もが何かしら罪を犯している。誰もが許してもらわねばならない何かを抱えている。それを棚上げして、自分が「掟そのもの」であるかのような正しい顔をして、石を投げられるか? 胸に手を当てて考えれば、皆そこで後ろめたさを感じずにはいられないのです。イエスに問いかけられるまでは自らを正しい者と思い込んでいた彼らも、そこで初めて立ち止まって自問し、気付きに至ったのです。

裁くのは神。許すのも神。人はそれぞれに罪を抱え、いつも自分の弱さに振り回され、多かれ少なかれ誰かを傷付けたり、あるべき姿から遠ざかったりしているものです。その人間同士が互いの罪をただ糾弾し合うのは「どんぐりの背比べ」、……いえ「目くそ鼻くそを笑う」というやつですね。

でも私たちはこれをやってしまいがちです。「うわ、あいつ鼻くそだ、汚ねぇ!」と指差して嘲笑い、責め立てている間は、「自分自身も目くそに過ぎない」という事実から目を逸らしていられるためでしょう。

「じゃあ不正は放っておけというのか」というと、そうではありません。イエスはここで女性に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」との言葉をかけておられます。

「もう罪を犯してはならない」と言っておられるのですから、彼女がした罪は罪だと明らかに認めておられるのです。罪は良くない。罪は憎い。ただ、罪を犯したから「その人はそこで終わり」ではなくて、「その人がこれからどうするか」が大事なのです。

「罪に定めない」という言葉は、「罪を犯した人が、そのままであることを望まない」ということでしょう。これから彼女はどうなるべきか? 「罪を犯してしまった自分」をきちんと受け止めて悔い改め、「これからはもう罪を犯さない」、新しい人として生きていって欲しい。そう願ってくださっているのでしょう。

自分に自信が無い時ほど、誰かを責めることで自分の正しさを保証しようとしてしまうものかもしれません。でも「お前は悪い」とレッテルを貼り合うところからは、神の国は始まりません。「罪を犯してしまうのは悲しいね。もう嫌だね。お互い自分の弱さをしっかり受け止めて、これからはそうならずに済むようにしていこう?」 正しさを競い合うのではなく、弱さに打ち勝てるよう励まし合いつつ、歩んでいけたら良いなと思います。


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