わたしは釜ヶ崎で戸惑い、沖縄で佇み、ハンセン病療養所で途方に暮れた。

自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
新約聖書 ルカによる福音書14章27節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義学校で聖書科教員をしている、牧師です。

先日、友人に薦められて読んだ本がこちら。

すごく面白かったんです。が、難解ではないのに濃密で、私の側の受け止めるキャパに限界があって、一旦途中でおいて……で、また続きを読んで、おおぅ……となりながらしばらく横になって消化してみたいにして、ちょっと時間をかけて読みました。普通に読み進めれば十分一日で読める分量だし、読みやすい本ではあるのですが。

哲学の先生……だと思うんですが、社会学的な領域にかなり重点を置いた研究をされている方なのかな。お若い、気鋭の学者さんだそうです。私はこの本を薦められるまで、寡聞にして知りませんでしたが。

「学者」である著者が、研究室や机から離れて「現場」でものを見て、聞いて、感じて、考える……というコンセプトで、様々な「現場」に赴いておられます。折しもパンデミックと重なり、行動制限もある中で苦労して書かれた本であることが、あとがきで分かります。

ちょっとくらい現場に出てみたからって、何が分かるわけではない。でも、実際に目の当たりにしてみることで、それまで感じられなかった何かが熱を持って感じられるようになる。それは「感じていないことにさえ気付かなかった」昨日までとは、やっぱり何かが大きく違ってくる。そして、何が分かったわけでも、何ができるわけではなくても、「何か変わらなきゃいけないんじゃないか」ということを、自分の声で発する人にはなれる。

そういうことを仰りたいのかなと思いましたし、それは私自身が感じてきたこと、悩んできたことの代弁のようにも感じられました。

これを読んで以降、私は自分の身の周り、日頃の振る舞いに対して、やはりアンテナを張らずにはいられなくなりました。
安価で手に入れている品物が誰かの労苦を搾取して提供されているものなのではないかという想像。お店から家までのわずかな間だけ商品を保護しているプラスチックが、大量のゴミとして溜まっていく日常。あちらの部屋でもこちらの部屋でも、複数の機器を通して消費されている電力。
私自身は結局その後も何かを劇的に変えられてはいないけれど(著者は一時期「ノープラスチック生活」にチャレンジしていますが、読んでいるだけでそれがいかに困難か思い知らされます)、ちょっとラップの使用を減らしたり、こまめに照明を消すようにしたり、気軽にポチっとネットで買おうとしていたところを保留したり……という「極小」の変化は起きています。
「何もできていないけれど、でもほんとは何かしなきゃいけないよな」という「罪悪感」が、今の私をひっそりと動かしています。

「罪悪感」を抱えて生きるというのは、しんどいことです。
「プラスチックの大量消費は良くないよ」と言われて、それは理解しつつもなかなか生活スタイルを変えるほどの余力も無い毎日。
そういう中では、「変えられなくてごめんなさい」と思うよりは、「私くらい変わっても世界は変わらんし~」と開き直る方が、楽です。
けれども、「なかなか変えられなくてごめんなさい、でも何か変えなきゃとは分かってるんだ」という気持ちを抱え続けることで、たとえばいつもならラップをかけていた食品に対して「蓋付き容器でいけるかも」と思い付く機会が生まれて来るんじゃないかと思うんです。

この本を読んでそんなことを考えているうちに、私の生き方をドライブしている一つの大事な要素は「罪悪感を抱え続ける」ということ、「後ろめたさ」であることに気付きました。

キリスト教会、キリスト教主義学校という私の所属の影響もあって、私には様々な「現場」に出会う機会が与えられてきました。この記事のタイトルに挙げた「釜ヶ崎、沖縄、ハンセン病療養所」はその一部です。(お気付きかと思いますが、本のタイトルをもじらせていただきました。)
それぞれの現場に赴く度、私はいつも後ろめたさに苛まれてきました。
気付かなかったとはいえ自分が加害的立場にいるということ。自分が問題解決に向かうための有効なアクションを何ら取れていないこと。私はこの問題に対して知らぬふりをして変わらないままでいることさえできてしまうこと。
そういう様々な苦しい気付きによって、自責の念で目の前が暗くなるような経験を何度も重ねてきました。

それぞれの現場には、そこに根差して熱心に働いておられる「当事者」の存在がありました。「私は彼らのようになれない」という申し訳なさから、その人たちに「お前は何もしていない」と責められるのでは……と、被害意識のようなものを感じてしまうこともありました。

でも「せめて、罪悪感だけでも感じながら生きる」ということの中で、成せる業もあるのではないかと思います。
私の場合、教会や学校というフィールドが与えられていますから、そこで「伝える」ということを通して、その問題について「知っている」人を増やすという働きは可能です。実際の各々の現場で直接的な働きはしていない、できていない私でも、間接の間接のそのまた間接……くらいかもしれないけれど、「何か」はできるのではないかと信じています。

来週はイースター、イエスの復活を祝う日です。ということは、この一週間は「イエスの死の直前の一週間」、「受難週」と呼ばれ、イエスの十字架を想う一週間ということにになります。
「自分の十字架を背負う」「自分の罪を悔い改める」と言うと、「私は別に悪いことなんてしてないし」と不快に思われる方もいるでしょう。
でも「罪悪感をちゃんと受け止める」ということは、自分を見詰め直し、自分を正し、自分を少しでも「まし」な方へと導こうとする、大事な原動力にもなり得るのです。

「別に私は悪くない、私は変わりたくない」と開き直るのは、楽です。でも、「楽だけど、一層加害的に、罪にまみれた生き方」よりは、「後ろめたさという重荷を抱えつつも、少しでも他者と連携し、より広く互いのことを思い合う生き方」の方が、神さまには喜ばれるんじゃないかな、なんて思います。

十字架を想うこの季節。自分の振る舞いや生き方を振り返り、そこにある痛みも真っ直ぐ受け止め、「主よ、罪多き私をお許しください。そして、私にできることをお示しください」と祈りながら歩みたいと願います。


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