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外側の住民

私がまだ小学生の頃、女子の間でプリクラ帳というものが流行っていた。正式名称『プリント倶楽部』という機械で、狭い空間に二人以上の人間がレンズに向かってポーズや表情を変えて撮り加工して印刷されるあれだ。昨今では自撮りというものが当たり前になっているが、そのころはまだスマートフォンが無い時代だった。

街へ友達と遊びにいく女子の目的は、恐らく半分はプリクラだったのではないかと思うくらい「一緒にプリクラ撮ろう」という言葉を聞いた。そのような言葉をかけられた際に笑顔で返せる人間だったら良かったのだが、如何せん私はプリクラが苦手だった。1回400円以上出してまで自分が写った写真が欲しいとは到底思えず、それならまだリズム感が皆無でも太鼓を叩いている方が有意義だと思っていた。「私はいいから、皆で撮っておいでよ」というと「写らなかったら意味無いじゃん!」とか「思い出に撮ろうよ」と頑なに拒絶を拒まれた。仕方なくその時は誘いにのるが、誰かの背後に隠れてやり過ごすこともあったし、それ以降その知り合いとは遊びに行くのをなんとなく避けた。きっと彼女らにとってプリクラは、思い出作りでもあるし、コレクション的な要素もあったのだと思う。その証拠にプリクラ帳なんてものが流行っていたなと微かに記憶している。


当時の私は、卵型のチョコレートの中に入っている動物のフィギュアを集めるのが好きだった。一度に何個も買ってくれるわけもなく、お菓子を選んでいい時に買ってもらって、少しずつ棚に動物の種類を増やしていった。一番のお気に入りはインコのフィギュアで、ずっと眺めていても飽きなかった。何かを集めることの喜びは知っていたから、彼女たちのプリクラは私にとっての動物フィギュアみたいなものなのだろうと思うとなんとなく理解はできた。だが、共感はできなかった。そんなにプリクラを増やしたいなら他の人と撮ればいいのだから、私を巻き込まないでほしい。とどこか冷めた考えさえ抱いていた。



小学生から根付いた写真嫌いは中学、高校にあがっても治る訳でもなく、気づけば専門学生になっていた。その学校は所謂少人数制で『アットホームな学校』と銘打っていたが、大人数だろうと少人数だろうと派閥やグループというものは存在した。私は自分の立ち位置をどこにも属していないものだと客観的には認識していた。特定のグループに入って行動するというのがものすごく苦手で、きっと特定の色に染まることを酷く恐れていたのだろうと思う。だからこそ、あっちへふらふらこっちへふらふら、浅い交流で何事も断りやすい立ち位置にいることを好んだ。

その学校は教師も少なく2桁もいかないくらいの人数で回していた為、生徒が自分達でできることは自分達でやるようにしていた。その中に『撮影』があった。卒業や宣伝、HP用などに生徒の写真がなにかと必要で、その割には教師の手が足りず、一部の生徒が自主的に学校の備品である一眼レフカメラを首から下げて走り回る姿があった。
写真に関して良くも悪くも機敏だった私は、そういう役目を担っている先輩のことをいち早く知り、その先輩と教師に直談判で撮影側に回してもらうよう頼んだ。まだ1年生だから任せてもらえないだろうか、と考えたのは杞憂に終わり「寧ろ助かる」と言われる始末だった。なんせ、皆カメラを向けられると笑顔に、時には変顔で対応してくれる側の人間で、撮影を拒むのは私ぐらいのものだった。

初めは使い慣れないカメラに四苦八苦していたが、先輩の教えもあり半年経つ頃には行事の撮影も先輩と共に任されるようになっていた。任されていくと同時に、私自身が撮影の楽しさを知り、バイトで貯めたお金で一眼レフカメラを買った。写真を撮っていくうちに、目線がこちらに向いている写真よりも外してるような、流れる時間を切り取ったような写真を撮る方が好きだなと自覚していった。そういった写真が好きすぎて教師に「もう少し目線がこちらに向いてる写真も欲しいな」とやんわりと催促された。



「君の写真が少なすぎる」と、卒業アルバムを作っていた教師に嘆かれた時はさすがに申し訳なく感じたが、写真に写るのが苦手な性分は変わらず、かといって「すみません」と謝るのもなんとなく違うなと感じたので、愛想笑いで誤魔化した。
無事卒業して大学生よりは少し早い社会人の仲間入りを果たした。その頃からなんとなく一眼レフカメラとは疎遠になっていった。私の中の撮影ブームは密かに薄れていたらしい。履歴書の趣味の項目の空白を埋めるために『写真撮影』と記したら上司に会社のイベントで撮影を頼まれたことはあったが、撮影といったらそれくらいになっていった。けれども、多少なりとも愛着が湧いていたのか、カメラを売ろうという発想には至らなかった。

そこから約2年経ったある日、再び自分の中で撮影ブームがやってきた。とは言え、休日に道端に咲く野花や、とりとめのない空を撮るくらいで、正直人も撮りたかったが、見知らぬ人にレンズを向ける度胸はなかった。
そこからまた1年経過したある春の日に、友人に誘われて初めて演劇を観に行くことになった。演劇なんて都会にしかないと勝手に思っていた私は、「地元にもアマチュアの劇団があるんだよ」と友人から聞かされて、ただただ感心した。

友人と行った劇場の受付に、私が持っているカメラと同じメーカーの一眼レフカメラを首から下げた人がいて、思わず嬉しくなった。その頃の私の日常の行動範囲内では、私以外に一眼レフカメラを持っている人なんて中々お目にかかれなかったからかもしれない。
緊張しながら初めて見た演劇は、観劇初心者の私でも見やすい内容のものだった。帰り際に例の一眼レフの人を再び見かけ、せっかく同じカメラを持つ者同士仲良くなりたい、と淡い希望を抱いて声をかけた。人当たりの良さそうなその人は、いきなり声をかけてきた私に対しても礼儀正しい対応で接してくれた。
それから友人を通して、少しずつ演劇に触れていくようになった。一番最初に誘われた劇団も定期的に公演していて、友人に誘われるたびに予定が合えば観に行き、必然的にカメラの人と顔見知りになっていった。

その当時は既にSNSが当たり前になっていて、Twitterでカメラの人とも繋がっていた。カメラの人は公演前や公演後の写真を記録写真として撮影していたのだが、それ以外でも日常的に撮影していて、随時写真をTwitterに漂流させていた。私はその人が撮った写真が自分のタイムラインに流れてくるのを楽しみにしていた。
カメラの人の撮る写真は、色味や構図が綺麗で暖かく、率直に言うと私の好きな写真だった。同じメーカーの機種を使っていてスペック的にもそんなに差はないはずなのに、カメラの人と私の写真には雲泥の差を感じざるを得なかった。

今まで自分から何かをやりたいと声を上げたことも無く、ただただその場をやり過ごす為であったり、嫌なことから逃げる為にしか行動しなかった私が、カメラの人と知りあってから「いつかこんな写真が撮れるようになりたいな」と密かに思うようになっていた。


 劇をする際は必ずカメラを持っていって、公演後に善意で「集合写真、撮りましょうか?」と聞くようにした。すると大抵は「じゃあ、お願いします」と返事が返ってきて、あとでLINEやTwitterのDMでデータを送るようにすると、自然と知り合いが増えていった。

私みたいな人間が少数派なだけであって、大半の人は自分の写真を残したいものなんだというのは重々理解していた。きっと「自分はここにいましたよ」という可視化できる証が欲しいのだろうなと勝手な推測を立てていた。けど、その証を残すためには自撮り棒が無い限り誰かが犠牲になる。きちんとした写真を残そうとすればするほど尚更だ。

私は、自分の写真は遺影用の写真が一枚あればいいと思っている。けどその思考は時に「寂しいね」と囁きかけてくる時もある。まるで、誰かを押しのけてでも一緒に写りたい人がいないかのような錯覚に陥るようで、それが「寂しいね」と囁いているようで。けれど、観劇のあとに撮る集合写真のデータが溜まっていくごとに「そうじゃないんだよ」と囁き声に笑って返せるようになってきた。
私は、写真に写りたい側の人間が愛おしいと感じるようになっていた。

私のタイミングで押したシャッターによって切り取られた世界の一部。その時その瞬間にいた人物、表情、互いの距離感や空気や温度。いずれぼやけていく記憶の中の尊い輪郭を、カメラと、私のこの手ははっきりと残すことができる。時には友人とプリクラを撮れなかったあの頃の自分を「なんで皆が平気で出来ることが出来ないんだ」と恨んだこともあった。でもそうじゃない。フレームの内側の世界で共に写れなかったと妬み拗ねる側ではなく、その世界を愛せる側の素質があった。ただ、それだけだった。


相変わらず写真に写るのには抵抗を覚えるが、ほんの少しずつ「この人たちとここにいたんだよ」と共に証を残したい人が増えてきている。それは良いことなのだろうけど、それでもやっぱり私は、外側から彼ら彼女らの証を残す側に立っていたいと願ってしまう。

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