M老師訪問(2024年8月)


1 はじめに

  先日、以前から付き合いのある臨済宗の師家(禅の指導者)であるM老師にあいさつに行った。
 この方面に興味のある人の参考になるのではと思い、まとめてみた。

2 長い前提

 一時期、禅にはまり色々な坐禅会や瞑想会に参加したり、某在家禅の団体(宗教団体)に所属した。

 私は、現在、その種の実践はやめて、当時交流ができた人たちのほとんどと関係を絶っている。それでもまだ付き合いの続いている人たちが若干おり、臨済宗のK寺で住職をしているM老師もその人。私は、仏教や禅に批判的なことも言うことから、迷惑をかけてはいけない上、逆に宣伝をするつもりもないので、仮称を使う。

 「老師」とは、臨済宗の公案課程を終えた正式な禅の指導者である師家の尊称。師家である者から修行の成果を認められることによって(これを「印可を受ける」という。その証明書が「印可証明」)、師家になる。どの程度の期間で師家と認められるかは師家やもちろんその弟子(学人などと言う)によって違う。M老師の場合は30年弱。

 師家は、臨済宗の僧侶の中では全くの別格。僧侶は嫌いだが、彼と話していると、僧侶でも師家になると全く違うという感じがする。臨済宗の解説書もあるが、教義の全貌は文字としてすべて示されているのではなく、師家と公案についての問答(いわゆる「禅問答」。「参禅」、「独参」と言う。臨済宗の特徴的な実践だが、僧侶ではない一般人=在家を相手に行う師家は極めて少ない)をすることを通して、伝授されるものであり、師家でない僧侶は、その教義の全貌を知っているわけではない。臨済宗それ自体が正しい訳ではもちろんない。しかし、臨済宗を知りたいと思うのなら、師家から教わらないと意味がない。

  彼とは、坐禅会を巡るようになり、半年ほど経った7月末に彼が住職をしているK寺の坐禅会に行ったことで面識を持った。

  当時、私は、所属していた在家禅の関係者から入会を誘われていた。伊吹敦の『禅の歴史』にも出てくる比較的古くからある団体で大丈夫だと思ったが、そこで行われている修行が本当に臨済宗の観点から問題がないものか疑問があった。

  K寺の坐禅会に行ってみたところ、喚鐘(独参をするため師家のいる部屋に入る時に鳴らす鐘)の鳴る音がして、独参をしていることがわかった。また、K寺では坐禅会が終わった後、茶話会があって、そこではM老師が参加者のあらゆる質問を受け付けて話をする。それまでにほかの師家ではない僧侶の話も聞いたことがあったが、そこでの話が全く違った。彼にはカリスマ性があって、当時、私もうぶでしたから素直に「本物だ」と思ってしまった所がある。

 そこで、在家禅の室内が臨済宗の出家者の師家の室内と比較して問題がないか点検するため、彼の室内に入室することとした。

 その後、新型コロナウイルスの流行があり、長期間、坐禅会が休止されることになった。加えて、私自身、日本の臨済宗の源流にある中国の馬祖や臨済といった唐代禅(禅の修行を否定し「無事禅」などと呼ばれる)に傾倒するようになったことや、在家禅をやめるなどといったこともあり、彼の室内への入室を含め、禅の実践をやめ、坐禅会や瞑想会で知り合った人との付き合いのほとんどもやめることにした。

  とはいえ、M老師には魅力があった。一番の魅力と言うと非難する人もいると思うが、それは彼のかかった病魔。

 彼は、小脳が萎縮する国の指定難病にかかっている。私が最初に会った時には既に彼の身体を病魔が襲っており、かろうじて坐禅指導はできたものの、歩くときの足元はおぼつかず、一本の杖を突いて歩き、話す際もろれつが回らない感じだった。それから数か月ほどで自分では坐禅を組むことができないようになり、坐禅会の参加者のうちの久参(古くからいる人)に初心者向けの坐禅指導を任せざるを得なくなった。坐禅会をやめた後、年に3~4回ほど駄弁りに行っていたが、次第に歩行器を使うようになり、湯飲み茶わんを持つ手の震えもましていき、移動は車いすを使うようになり、更に私が訪問をするときには最初から書院に車いすに座り、待機するようになった。

  ただ、ずっと変わらないのは、いつも朗らかに話すこと。どんどん自分の体の言うことが利かなくなり、じわじわと死が迫ってくるのを感じざるを得ないのに、朗らか。苦痛や内面の葛藤があるはずだ。私もいつか病魔に犯され、悲惨な状態に陥るのは間違いないことを考えると、彼のほがらかさは、臨済宗の師家という特別な立場や宗教などとは関係なしに、一人の人間として学ぶべきものを感じ、その内面世界を知りたいと思った。

  また、禅に対する内在的な興味を失ったとはいえ、それなりの長さ親しんでいたことから、日本の臨済宗では(普遍的に正しいか否かではなく)どう考えるのだろうと疑問に思うことが時折現れ、一番信用の置ける回答をすることができるのは彼だということもあって、入室を辞めてからも、先に述べたとおり、年末年始や夏期休暇、春先などの節目にあいさつついでに駄弁りに行っていた。

3 2024年8月某日

 それまでは、M老師に挨拶に行くときは、一人で行っていたが、初めてK寺の坐禅会で知り合ったI氏と一緒に行くことにした。
 I氏は60代、私が幼稚園の頃から坐禅をしていたという人。

 普段、M老師にあいさつにしに行くときは、有意義な時間にするため、あらかじめ私自身の問題意識を踏まえた参考文献の抜き刷りを作るなどしてから行くのだが、正直、M老師に聴きたいテーマはなかった。以前からI氏の禅歴を聴きたいと思っており、どちらかというとI氏の禅歴を聴く理由づくりに彼を誘って、M老師にあいさつに行くこととした。

  I氏は身体の不自由なM老師の生活を補助するためにK寺にも比較的よく行っており、K寺に行く待ち合わせ時間の調整の電話の中で、「話もほとんど聞き取れないかもしれない」などと話していた。

  私は、それまではK寺に行った際は、2~3時間はM老師と駄弁っていたのだが、30分くらいで退散しようか、僧堂で3年半修行をしていた老師の息子さんが副住職として戻ってきたというので、息子さんとの話しでも聴くかなどと考えながら行った。

  老師は、ベビーチェアのようにテーブルのついた車いすに座っていた。途中、奥さんがお茶を持ってきたが、それも乳児が使う樹脂性のストローがついた密閉性の高いもの。
 前回、3月のときは、車いすにテーブルはなく、がんばって湯飲みを使っていたから、5か月ほどでまた病気が進行したわけだ。
 とはいえ、I氏の話していたよりは余ほどよく、結局、2時間30分ほど話をさせてもらった。

4 七仏通誡偈

 話は、ダンマパダの七仏通誡偈、すなわち「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教」から始まった。

 しばらく前に、M老師がI氏に「不思善不思悪(注1)なのに、なぜ、自浄其意なのか?」との疑問を口にしたらしい。素人臭いともいえる素朴な疑問だが、自らの死期が間近に迫っていることを認識している人間が言う話しなので、そのような状況になっても、なお、前へ前へ進んでいこうとする静かな覇気に敬意を抱く。

 老師は、一遍の念仏踊りを題材にして、「一行三昧」について語っており、三昧に入った上での行動をする境地であるとの話をしていた。これはこれで臨済宗らしい。彼は、この種のことを「さらりさらり」「よそ見をしない」「振り返らない」「成り切る」という。

  「七十にして矩をこえず」(論語)、「本当は良いも悪いもないのだが、良いことをしなくてはならない」(加藤耕山・注2)という話に類似するのではと私が訊いて、老師が肯う場面もあった。

5 修行時代

 以前、M老師から、高校生の頃、人生に悩むことがあり、谷村俊太郎と中村元に手紙を書いたとの話を聞かされたことがある。お二方とも、手紙を返してくださったそうだ。

 中村元先生からの手紙には、「自分に自信を持て」と書いてあったとの話が、「病い甚処(いずく)にか在る、病い不自信の処に在り」との臨済録の一節を想起され、特に印象に残っている。

  「人生の悩み」については、「生死の悩み」と語っていた。「生死」は仏教語としては「輪廻」の意味が正しいのだろうが、多くの場合、「死により限定された生」の問題、死にゆくのに生きる価値はどこにあるのか、との問題になろうと思われる。そんなことで、苛烈な修行に入ることは信じ難いものもあったが、比較的最近の禅者には、この種の人が少なくないように思う。

  禅等の仏道修行や実践にのめり込む人には、未成年の時に逆境体験があると思うことがよくあるが、M老師について、更に遡って訊いたところ、その種の話が出たことがある。ただ、余りにもセンシティブなので省略する。

  M老師からは、大学に入る直前の状況について聴いたことはあるが、大学に入ってからのことは聴いていなかったことから、大学入学後の話を訊いた。

  大学入学直後、まず、辻雙明(つじそうめい)の不二道場に行ったとのこと。
 辻雙明は知らなかったが、春秋社のwebページに略歴がでていた(注3)。

  次に行ったのが白山道場(龍雲院)の小池心叟老師。
 前もって便せんで10枚くらい50問ほど自分の疑問を書いて封書で送った。当時は、スッタニパータが好きで、一つはスッタニパータに関するものだと。その封書を郵送したところ、葉書で「〇月〇日来い」と返信がきたという。

 当日、午後6時に白山道場を訪れ、まず、心叟老師から夕飯をいただいたそうである。さらに続けて風呂にも入れてもらい、それから、午前0時ころまでずっと話を聴いてもらったという。
 最後、鯛をつかもうとする河童の絵に「七転八倒」と揮ごうした色紙をもらったと。
 そして、一月のうちに、観音経、般若心経、消災呪、大非呪、延命十句観音経、四弘誓願を覚えろと言われた。

 聞いた時の話の流れでは、その一月の後に、すぐに内弟子になったように聴いたが、大学生活もあり、K寺のウエブページに出ている略歴によれば、大学を卒業した後の話のようだ。大学4年間の状況は、再度聴くか。

 内弟子は1年間したが、その間、心叟老師は「何も教えてくれなかった」。やっていたのは、掃除と坐禅のみ。
 1年間内弟子をした後、古刹の専門僧堂に入り、以後、その専門僧堂と白山道場とを行き来して、最後、その専門僧堂での臘八摂心で印可を得た。

 ある日、突然に僧堂師家でもある管長に呼ばれ、三幅の掛け軸をもらう。開くと随分な長さのものらしいが、それが印可証明だと。
 これまで、印可証明なるものを見たことがなく、見させて下さいと言おうと思ったところ、毎年正月の1日から3日まではその掛軸を掛けて公開しているという話がされ、驚く。毎年年末年始には挨拶に行っていたのだが、正月三日は何か行事や来客があるのではと思っていたので、外していたのだが、自由に行ってよかったのか。これまで、随分な回数、それを見る機会を逃していたことになる。このことは、一緒に来ていたM老師に十年以上前から入室していたI氏も昨年末、K寺の年末の手伝いをしていたときに掛軸を掛ける場面に接したことから知ったという。今更ながら「聞けば応える。聞かねば応えぬのが禅門の倣い」という言葉をかみしめる。
 来年の正月はK寺に初詣に行くことを誓う。

6 白山道場 

 話の途中で、白山道場が坐禅会をやめたとの話を知ったときには驚いた。

  在家に独参を許す出家者の主催する坐禅会といえば、白山道場を除けば、円覚寺居士林しか知らず、別格であるとの印象があったからだ。
 もちろん、M老師が大学生からの修行の場所であり、心叟老師との師弟話をも聞かされていたこともある。
 帰宅したのち、ネットを調べると、今年の4月頃から坐禅会をやめたようだ。また、横田南嶺老師が兼務住職をされてからは提唱のみで独参を受けることはやめていたという。

 M老師は、在家の入室を聴く変わり種だが、その理由はM老師自身が寺院の出身ではない上、白山道場で熱心な在家の修行者の人と接することがよくあったからだと話していた。M老師が白山道場で、雲水をしていたころは、心叟老師に代わって参加者の在家のあらゆる質問に答えさせられていた。 

 白山道場には、コロナ前、200人くらい坐禅会に来ていたと聞いたことがある。M老師の話から、行っている人に南嶺老師に質問をする機会はあるのかを聴いたら、とても質問などできる状況ではないと話していたが。とはいえ、コロナ前200人の参加者という話しからも、その坐禅会がなくなったとの話は驚きだった。

7 在家への印可 

 白山道場や辻雙明の話から、在家禅修行者への印可についての話題に。
 戦前は、在家禅修行者にも印可は出していたが、戦後は出さなくなった。M老師も在家の入室は聴くものの、印可を出すことはなく、これという人には出家を打診するとのことは聞いたことがある。
 
 辻雙明のほかに大きな話題として出たのは、伊藤林作『禅のしるべ』
 I氏の蔵書で内容の訳がわからないことから、M老師と奥様(この人も白山道場で禅修行をしていた)に見せたところ、二人とも「これはただものではない人だ」と。
 アマゾンで見たところ(2024年8月21日現在)1万2990円の金額が示された。読んでみたいが、自分でその金額を出す気にはなれない…などと考えていたところ、「日本の古本屋」に800円(送料別)で出ていたことから、購入した。

 ほかに川尻宝岑、内藤ちょううんといった人の名前が、M老師やI氏から出た。内藤老師は、印可を得るのに40年かかったという。ちなみに心叟老師は、50年参禅をした人にも印可を出さなかったとのこと。 

 秋月龍珉の話も出る。秋月龍珉は釈迦牟尼会の苧坂光龍のほか宮田東珉の印可を受けたものとされるが、疑問と。M老師については、これもよく出てくる話だが、I氏の補足が面白かった。
 I氏によると、横田南嶺老師の「管長日記」には、秋月龍珉が出てくることもあるのだが、その際には、「秋月先生」と表記され、「秋月老師」とは表現しないのだという。
 とはいえ、以前、M老師は、「出家は在家が何を言っても相手にしない。ところが、秋月龍珉さんに対しては、厳しく攻撃していた。本気になってつぶさなければいけないと思われていたという意味では、力があったのだと思う」との面白い論評をしていたことがあった。

 なお、妙心寺については、明確に、在家に印可は出さないことを明示している(注4)が、ほかも同様であろうと思う。戦後になってから、在家に対する布教の政策が大きく変わったことはわかるが、その理由はわからない。禅に取り組むようになった初期段階ではある種の反発心もあったが、離れてみると、世間のほとんどすべての人は、禅を含め仏道修行などなくても問題なく生活をしているし、不要なものが必要になるというのもおかしな話であって、ある種の病であろうから、現在のような扱いが却ってよいのかもしれない。

8 円覚寺の法系

 古川堯道の後は、朝比奈宗源が嗣いだことになっているが、実際には朝比奈宗源の前で切れている。古川堯道老師は、朝比奈宗源に対しては「(相応しい境涯を持っているかは)世間に問え」と言って印可を許さなかったらしい。とはいえ、円覚寺の後継を作る必要のあることから、建長寺管長の中川貫道が朝比奈宗源に印可を出して嗣がせた。このようなこともあり、心叟老師は、朝比奈宗源が嫌いだったようだ。

9 無門関第二則「百丈野狐」

 無門関は、第一則(趙州無字)だけではだめで、第二則(百丈野狐)も重要であるとの話が出てきて、これも面白かった。本でよく出てくるのは、第一則の透過が重要で、これをきちんと透過すれば、後の則の透過は容易などという話で、更に第二則が重要という話はこれまで見聞きしたことがなかった。
 M老師が言うには、第一則は平等であり、第二則が差別であるから、両方重要であるという。そして、差別とは苦なのだと。
 このような語り方は初めて聞いたが、「狐が狐に安住して他をうらやまぬときを「仏」というのです。人が人に満足せずして他に求めてやまぬときを「狐」というのです。」(秋月龍珉『無門関を読む』225)との観点からすると、狐とは抜け出したい状態、すなわち、「苦」の比喩で、その脱したい状態に安住することと捉えるのなら納得のいく話だ。もっと禅臭く言えば、趙州無字は絶対、百丈野狐は相対ということか。
 「「不落」と「不昧」は同じことだが全然違う」という言い様も印象に残った。(注5)

10 「思い通りにならないことがありがたい」

 話の途中、キリスト教が話題となり、彼が、「キリスト教徒は修行してないから、迷いがあり、救われていない。」との話をした。

 M老師は以前にもこのような話をしたことがあり、私は、迷いのあるなし、救われているいないといった話には問題があると思っていて、「キリスト教でも修道院は違うようですよ」との話をして、「ブラザー・ローレンスという人がいて、この人はキリスト教の修道院で典座(僧堂での食事作りをする役位)をした人で、亡くなる間際に、『私は、もう神のところに行かなくてはならぬ。神が私をいかようにするかは問題ではない。そのことに喜びを覚える』というようなことを言ったとの話が鈴木大拙の『百醜千拙』という本に出てきて(注6)、地獄に落ちても構わないというところがとても好きで。歎異鈔第二条の『念仏して地獄に落ちてもいい』も好きです(注7)。とにかく地獄でよしというのがいい」との話をしたところ、老師も肯った感じで、しばし、鈴木大拙が腸ねん転で苦しんで死んだことや山岡鉄舟の辞世の句の話(注8)をした。
 さらに、私は、「飯田欓隠の「只管病苦」や「只管病苦」の話(注9)も好きですが、「鈴木俊隆という曹洞宗の人の『私が死ぬとき、死に行く瞬間、苦しんだとしてもOKです。それは苦しみのブッダだからです。そこに混乱は在りません』との話(注10)が好きです。それまでは縁側で日向ぼっこをしながら眠るように死ぬことに魅力を抱いていましたが、「死は苦しくてよかったんだ」とわかりました。私は禅を文字でしか勉強していませんが、これは禅の勉強をしていて一番良かったことです。」と話して、その後は、隣のI氏が嫌そうな顔をしている横で、M老師と苦しいのがいいなどといった話をした。

 死の間近い人に死の話をするのはどうかという人もいるかもしれないが、自分の死を前にして死に向き合うことが嫌だというのであれば、師家だの老師だの言われも底の知れた男であり、臨済宗の禅修行もするだけ無駄と言うものだ。彼の魅力はこのようなギリギリの話ができることであり、死が迫って私が親切をしなければならない人であって欲しくはないという思いもあった。
 
 最後、老師の提唱などをI氏らがまとめた小冊子をいくつかいただいた。その中に、老師がK寺に来る前に住していた別の寺でしていた「伝心法要」の提唱をした際のものがあった。もちろん、私は、その提唱は聴いていない。
 その中に「私たちは「生まれるぞ」と思って生まれてきたわけじゃない。そして思い通りにならない毎日を生きている。そして、最後に思いもよらず死んでしまう。生まれることも、生きることも死ぬこともままならない。これがありがたい。思い通りにならないことがありがたい。」と。
 「思い通りにならないことがありがたい」。少し強すぎるように思うが、彼も私と同じことを考えていてくれたのだとうれしくなった。
 同時に、老師が「死ぬこともままならない」真っただ中にいて、最後に修行の成果を試されているのだと。本当に「思い通りにならないことがありがたい」との境地に達しているのかが問われているのだと思うと、身が引き締まる。それとも、臨済宗の老師にこんな思いを寄せる方が馬鹿にしていることになるのだろうか。
                               以 上

(注1)原典は「伝心法要」

(注2)私がその場で言った言葉。正確にはつぎのとおり。
「本来はいいことも悪いことも無いと言えば言えもするがね。なるべく良い方に向って行くように、われわれは行動をとらなければならんという、そこに道があるはずだ。」
加藤耕山「山中問答――国民皆坐のすすめ――」鈴木大拙監修・西谷啓治編『講座禅 第三巻 禅の歴史―中国―』318~319

(注3)辻雙明
「1903年生まれ。東京商科大学在籍中に円覚寺派管長兼僧堂師家・古川堯道老師に参禅、後、嗣法。1949年、46歳の時に那須雲巌寺の植木憲道老師について出家得度、後に還俗。鈴木大拙や西田幾多郎、公田連太郎にも親しく教えを受ける。1963年、不二禅堂の初代師家就任。1991年逝去。」

(注4)内山善行「禅宗の師家制度について パート2 臨済宗妙心寺派の師家制度について(調査メモ)」322
「◎在家居士で師家から印可を受けられるか
・在家居士の状態で印可をもらっても何にもならない。宗派名簿に登録してもらえないから、何の資格もない。また、居士の状態では、修行歴の証明を僧堂が出さない。
・得度せずに、僧堂に入って居士の状態でいくら修行をしても、それは法臈には入らないので、師家分上は認められない。認めてほしいという者がたまにはあるが、正式には無理。」

(注5)改めて秋月龍珉『無門関を読む』を読み返したところ、同様の指摘があり、その部分にサイドラインを引いていたことに驚く。無門関はほとんど見返さなくなっていたから本当に忘れていた。
「「不落」がそのまま「不昧」でなければなりません。悟ってもやはり「ひじは外に曲がらない」(鈴木大拙)のです。「平等」(真空間相)のなかに、やはり「差別」(真空妙有)がなければなりません。差別を知らぬ悪平等を「野狐禅」というのです。」
秋月龍珉『無門関を読む』226 

(注6)正確には次のとおり。
「われは、(略)間もなく、神の所へ往かなくてはならぬ。(略)」
「神はわれを如何やうに片付け給ふか、そはわが知る所でない。
われは何時も仕合である。
世界を挙げて苦んで居るが、このわれは、この最もつらき訓練を受けねばならぬ吾は、不断の喜びを覚える、大なる喜びを覚える、どうしても抑へきれぬほどに覚える。」
鈴木大拙『百醜千拙』186-187
 
(注7)歎異鈔第二条(一部)
「たとひ法然上人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。」
 
(注8)次のような話がある。
「山岡鉄舟も胃癌で苦しんで死んだ。辞世の句は,「腹張って苦しきなかに暁け烏」というのであった。弟子たちは,鉄舟先生ほどのかたの句として恥ずかしいと考えて内証にしていたのを,おくれて京都から来られた師の滴水和尚が見て,「さすがは鉄舟さんだ」と言って,改めて発表させられたという。」
秋月龍珉『日常の禅語』116
 
(注9)正確には次のとおり。
「病の時は病ばかり、只管病苦じゃ。病者衆生の良薬なりと仏も云うた。病によりて永久の生命が得らるるからじゃ。(略)死の時は死ぬるばかりよ。死也全機現(しやぜんきげん)じゃ。只管死苦じゃ。この期に及んで安心を求むるとは何事ぞ。只死苦ばかりの所に大安心の分がある。」
飯田欓隠『通俗禅学読本』24
 
(注10)正確には次のとおり。
「私が死ぬとき、死に行く瞬間、私が苦しんだとしてもOKです。それは苦しみのブッダだからです。そこになにも混乱はありません。」
鈴木俊隆『禅マインド ビギナーズ・マインド』12

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