臨床観について②
臨床観というのは、ただ単に支援という仕事上の役割だけではなく、人間をどう捉えるかという自身の根本にある感覚が反映されるように感じます。
私自身の人間観というものは、1つは「人間も動物だ」ということです。社会性や言語を用いて様々な文化を発展させてきていますが、基盤にあるのは動物である肉体であり、そこには犬や猫などと同じように、神経が通い、血が巡り、筋肉が躍動し、感情や本能で動いている生き物のはずです。
はずなのですが、ともすると私たちは、言葉を用いる事に溺れ、全てがコントロールできるような錯覚を抱き、動物である自分の肉体と自身を切り離してしまいがちです。それすらも人間のタフさであるのでしょうが、そこが切り離されるが故に精神的な不調やストレス反応なども起きるのだと思われます。
また、人間観として、「人間はいつまでも変化し成長できる」という思いもあります。人間は年齢に限らず、様々な環境に適応し、自分と言うものを発揮しながら生きていくことができる、と私は信じています。
とりわけこれは臨床観に強く反映される部分で、どんな人であっても、自身がよりよく生きようとする根底の欲求があり、それを満たそうと、得ようとするために行動を起こし、変化することができる。そうした信念のようなものを私は持っています。
そしてもう一つが、「どんな人であっても自分のその時々の最善の選択をしてきた」ということです。どんなに悲惨な結果であったとしても、どんなに充実した結果であったとしても、仮に途中で死んだとしても、人間は、その瞬間瞬間に自分が取れる選択を、様々なことを総合して判断し、行動をしています。
ただしそれは、論理的な世界から見て理にかなったとは言えないこともありますし、社会的な法に照らし合わせて逸脱しているということだって珍しくありません。ただ、そうしたときに、社会的な枠組みや倫理、ロジックなどがあたかも絶対的に正しいかのように捉えがちです。
むしろ逆で、法や倫理や論理は後付けに作られた、ツール程度でしかありません。しかし人間はともすると自分が作り出したツールにとらわれ、そちらの方が絶対的に正しいかのような錯覚に陥ります。
仮にそうしたものにとらわれているとしても、1人の、いや1匹のとある動物である、目の前のクライエントさんを支援する時、少なくとも支援者は出来る限りそうしたツールから自身を切り離して考えられた方が良いのでしょう。
それにより、よりクライエントさんを価値判断なく捉えた支援、本当に必要とされている支援に、辿り着けないとしても、せめて近づくことができるのではないでしょうか。
そんな風に考えています。
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