臨床観について①

職場の同僚と話していると、時々クライエントの見方について噛み合わないことや、ズレを感じ、ケースの見立てを共有することが難しい時があります。

例えば、あるクライエントさんの生育歴について話す時も、私はその人なりのストーリーがあると考え、そのストーリーはその人にとってその時々の必然性や、取捨選択によって形作られていると推測し、またその選択がその人を形作ってきているものと認識します。

しかし、人によっては、「誤った選択をしてきた」という暗黙のメッセージを含めて見たり、そのような選択肢を取ってきたクライエントを未熟だと評するようなカウンセラーもいます。

そのような見立ては、おそらく一概に間違いではないでしょうし、未熟の裏には成長可能性を秘めているとも言えます。

ただ、思うにその見立てが果たして支援に役に立つのか。また、その見立て方がその人個人を、年齢や生育環境、性別を問わず、一個人として尊重した見方になっているのか。そうした点は私にとって、とても心に引っかかる部分があります。

裏を返せば、私はクライエントさんを一個人として尊重して見たいと考えるし、その人の生まれ育った歴史を丁寧に拝見したいと考えてもいるのでしょう。


見立て、すなわちその人を理解するための見取り図のようなものを形作っていく時、支援者は、ある意味で価値観から自由である必要があります。

例えば、先程のような、未熟であるという観点や、何か間違っている、劣っているといった見方は、クライエントさんそのものをありのままに見ようとする時、妨げになり得るものだと思うのです。

極端に言えば、例えばもし仮に殺人者のカウンセリングを行おうとする時、もちろんその人の罪は罪として社会的に定義されますが、そうした倫理観や法律、道義とはまた少し異なる次元で、その人の生きてきた歴史や、生き様といったものは、価値判断からは自由に、確かに存在するはずなのです。

それがもし見えないとするならば、それは見る側のフィルターの問題であり、曇ったフィルターや、歪曲したフィルターを通して見たときに、その人のありのままの実像と言うのはなかなか見えなくなるものです。

だからこそ、支援者は自分自身の価値観や経験を相対的に見つめられるようトレーニングを受ける必要があるのですが、そうしたトレーニングにも出会えるタイミングや、また深められる時期や資質のようなものも、おそらくあるのであろうとも思います。

私自身も、まだまだ自分の価値観を一歩離れて見るには及ばぬこともあり、自身の感覚や体験が妨げになることもあります。

たびたび言葉にすることではありますが、やはりそうしたことも含め、自分自身を、起きていることを、「自覚する」ということが、やはり重要なのでしょう。

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