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占えない占い師から考えた話し手が抱える2つの恐怖

「占いを真面目に聞かれるのが怖い」と言い放った占い師がいます。

僕の母と女性の友人です。なんてことでしょう!笑

僕の友人の話からしましょう。去年の12月、僕らはとある野外イベントで一角を使って出し物をしていいことになりました。

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それで、一つはゲストハウス寄処をテントにて再現するというのをやって、もう一つの小さなテントで占いをすることにしました。で、その占いブースで彼女に占い師をやってもらったのです。

なんと数日でタロット占いを急いで覚えてきてもらって、“昨日覚えたいい加減タロット”みたいな体で、無料でやりました。

ところが!

思ったより多くの人がやってきて、しかも思ったより多くの人が占いの結果に気分を良くしたり落ち込んだりして帰っていったのです。

WHY!!

イベント終わりのいい加減タロット占い師の感想はこうです。

「まともに受け止めるなよ!こっちが不安になるわ!」

実は僕の母も同じことを言っていました。ただし、彼女の場合占いへの本気度は違います。四柱推命、手相などけっこうガチで取り組んでおります。

僕としては「占いはエンタメでしょ?」くらいに思っています。だから、母が勉強ばかりして一向に有料で人を占おうとしないのを見て「早く誰か占って小遣い稼ぎをしてもいいんじゃないの?」と尋ねました。

それに対する返答が「占うのが怖い」だったのです。

前置きはこれくらいにして本題に入っていきます。

この二人の憂鬱な占い師から、僕は話す人が抱える2つの恐怖という仮説を立てました。

そう、本題は占いではなくコミュニケーションの話なんです。なんか期待していた方すみません。

話す人の恐怖の源泉

話す人は身銭を切っています。

人に対して「こうした方がいい」とか「いいね」「いやあ、どうかな」と言うときって、善かれ悪しかれ自分の価値観を晒して相手に影響しようとしています。

話す人が何を話題に上げるかも積極的に価値観を晒し影響しようとする行為と言えます。「私はこういうことに意識を向けています」とはっきり見せているわけですから。

自分の価値観を晒すということは、同時にその価値観を相手に評価する自由を与えていることになります。

それは勇気のいることだと思うんですよね。

だって、語ってる本人すら完全な自信はないわけですよ。自分の中で揺らいでる価値観、自分にしか意味がないかもしれない考えをとりあえず「えいっ!」としゃべっているんです。

まともな人間なら、絶対どんな状況でも正しい主張なんてあるわけないと思っているはずです。

話し手は、言いたいように言えないし伝えたいようには伝わらないことを承知の上で考えてることとか言葉にならないイメージのうちある程度筋を通して言語化できた部分を気合いで晒している

話す人の2つの恐怖 その1 占い師の恐怖

ここまででお話しした話し手のリスクテイクと気合がわかれば、話し手の恐怖がわかります。その恐怖は主に2つあるというのが今日の僕の論です。

ふたつの恐怖とは、こちら。

恐怖1  占い師の恐怖

恐怖2  拒絶の恐怖

まず恐怖1ですが、ようやく前置きを回収します。

占いを学んでも「占い師になるのが怖い」という現象は、相手が自分の話を鵜呑みにすることから来ているというのが僕の仮説です。

“私はどう生きるべきか”、“私はこの先どうなってしまうのか”について自分が言ったことを相手が鵜呑みにしてしまう恐怖です。

別に相手が自分からのお告げを鵜呑みにしてそのあとどう行動しようが勝手だと言えばそうですが、そんなのなかなか割り切れないのでは?

話し手は、自分の価値観を鵜呑みにされる恐怖を抱えている。

たとえば自分の友達が、何を決めるにも、あるいは何を評価するにしても自分にいちいち確認を取ってからその通り選ぶとしたら、だんだんうんざりしてくると思うんです。

その友達は、自分で決断して失敗する心配を避けるために人に決めさせ保険をかけている。

またまたエピソードで申し訳ないんですが、僕の昔の知り合いに、好きなパンを答えられない人というのがいました。

昼食時間にその子が食べていたパンを見て、「それ、好きなの?」と聞いたら、「〇〇ちゃんも好きって言ってたんだけど・・・」というところから返事が始まったんです。

ん?と思ってあとで面白いなと思ったのでよく覚えています。その子は自分の価値観の責任を負っていなかったんですね。

その子の友達には占い師の恐怖がだんだん募っていくんじゃないかなと思ってます。

まあ、“人が自分の代わりに失敗して経験値をくれるなんてラッキー!!”あるいは、“大成功してあの方のおかげとか言ってもらえたらラッキー!!”

と思うような人ならこの恐怖を持たないでしょうが、それが良い友人関係と言えるかは微妙に思えます。

恐怖その2 拒絶の恐怖

これはわかりやすいですよね。

さっき、

話し手は言いたいように言えないし、伝えたいようには伝わらないことを承知の上で考えてることとか言葉にならないイメージのうちでもある程度筋を通して言語化できた部分を気合いで晒していると僕は思ってます。

と言いましたが、だからこそそれを簡単に「要するにお前の言いたいことはこうなんだろ、でも俺はこっちの方が正しいと思う」なんて言われるといい気にはならないわけです。何をわかってるんだという話です。

言葉で拒絶されなくても、反応が薄すぎたり、楽しくなさそうだとやっぱり萎えてきます。これが、拒絶の恐怖。

僕的には、基本どんなに時間をかけても相手は言いたいことの半分も言えていないし、自分は相手の伝えていることの半分も拾えていないと思って、質問したり確認したりします。

まあそれは置いておいて。

中には何かにつけ反射的に批判や拒絶の反応が出る人もいます。

僕の仮説ですが、相手の価値観に反射的に批判や拒絶が出てしまう人は「〜しなければならない」「〜してはいけない」「〜するものだ」という考えが強すぎると思います。

たとえば、「浮気をしてはいけない」、だから浮気する奴は人としてクズで、不幸になっても仕方ない、とかですね。歴史や世界の事情、あるいは他の動物を見ればそれが普遍的なこととは言えません。

別に浮気してもいいじゃんという人がいたとして直感的に納得はできなくても、よくよく聞けば理解する余地はあるし、価値観の多様性を認める寛容さはあっていいと思うんですよね。

「〜しなければ」とか「〜すべき」という見方は、ある社会の道徳的価値観や社会的権威の示すことを鵜呑みにするところからきているのかと思います。

実際には、「〜すべき」とか「〜ねば」ということってほとんどないと僕は思うので、そういう風に考えます。

ぼく、いい子にしてるんだから大丈夫ですよね?

紹介したふたつの恐怖を話し手は抱えているわけですが、ならどんな聴き手が話し手の苦痛を和らげることができるのか。

それを考える前に、ふたつの恐怖を生み出している聴き手の共通点を考えます。

自分の価値観に最終的な責任を持っていない、これが僕の考える二者の共通点です。“正しい”価値観を誰かに担ってもらおうとする危うさを持っている。

“占い師の恐怖”を抱かせる聴き手は、相手の価値観を鵜呑みにすることで、失敗や非難の言葉を自分で受け止めないようにしています。

「〜しなければならない」的な思考から話し手に拒絶の恐怖を与える人は、社会的道徳や権威に責任を委ねています。たぶん。

彼らに必要なのは、『哲学してもいいですか?』の三谷尚澄に言わせれば

「ぼく、いい子にしてるんだから大丈夫ですよね?」 そういった、素直ではあるけれども無根拠な中間神話への未練を断ち切り、柔軟な生き延びの戦略をみずから探し求めるたくましさを備えた思考

著:三谷尚澄『哲学してもいいですか?』

でしょう。


良い聴き手ってなんだろう

なんでもそうだと思いますが、完璧な理解はないと思ってます。完全に正しいとか間違っているとかいうこともないと思います。

だから、「〜しなければならない」なんてことは実はそんなにない。

「〜したい」というのがあるだけだと思うんですよね。

いろんな人のいろんな「〜したい」がある。「〜したい」と言わない人の奥にも必ずある。

短絡的にも見える「〜したい」という欲求だとしても、奥にある望みは普遍的なものかなとも思っています。

誰かとつながりたい、親密になりたい、理解したい、面白がりたい、喜びを与えたい、気楽でいたい、自由でありたい、誰かの力になりたい、誠実でありたい、希望を見たい、追求したい…

「〜したい」を満たす手段は多様で、中には他人や自分を傷つけてしまうものもあるでしょう。でも、そうでない手段もあります。きっと。

僕は、お互いの奥にある望みを理解して、穏やかーに、大切な人たちと理解し合いたい、大切な人の役に立ちたいと思っています。

長くなりましたが、本日は以上です!

ふぅ〜、一息一息。

書くのってエネルギー要りますよね笑

今回も最後までお読みいただきありがとうございました!









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久高 諒也(Kudaka Ryoya)|対話で情熱を引き出すライター
サポートいただいたお金は、僕自身を作家に育てるため(書籍の購入・新しいことを体験する事など)に使わせていただきます。より良い作品を生み出すことでお返しして参ります。