健吾と神領運動
高千穂町上野(かみの)には杉山健吾という英雄がいました。
彼は何をしたかと言いますと、三田井氏が延岡藩の高橋元種に敗れ、高千穂が延岡の支配下になりました。その後、江戸後期、重税に苦しむ郷民達を救おうと、農民一揆を起こすのではなく、皇道国学の研究もしており、その関係もあって高千穂を天皇家の納める神領としましょうという神領運動をした方です。
杉山健吾は『高千穂郷は天孫降臨の聖地なるが故に、俗藩の支配を受くべきにあらず。禁裏直属の霊地なる可し』との信念を持っていました。
18ヶ村(高千穂、諸塚含む)の庄屋で集まり、郷代表として、杉山健吾が朝廷へ直訴しようと京都へ上りました。
苦難の末に見事、勅諚を受けたのでした。
それを伝え聞いた延岡藩は大慌て。
高千穂奪取反逆者なり!として、岩佐伴九郎他8人を急行させます。
健吾は名を『一条御傳内杉山帯刀』と称する事が許され、衣冠束帯に身を正し、朝廷の朝日官大納言を伴い、大分の豊後、鶴崎港に上陸します。宿舎には御紋幔幕を張りめぐらし、延岡からの動静を窺っていましたが、長旅の疲れもあり、湯船に浸かり、浴衣姿の所を狙われ、ひっ捕らえられ、全ての書状は没収されてしまいます。その後、終身刑を申し渡され、獄につながれてしまいました。本人含め郷民も相当な悔しさが残されたのでしょう。
厳しい拷問と尋問もありましたが、全て自分1人でやったと言い張ります。
そのおかげでその他の庄屋はひっ捕らえられることはありませんでしたが、三田井村の田崎岱蔵との手紙が見つかり、田崎岱蔵は3年の入牢が言い渡されました。
1847年から1862年の15年間生き延び、ようやく釈放されました。
この15年は彼にとってどんな想いで生き続けたのでしょうか?
昭和15年に「新都高千穂宣揚会本部」により上野村が杉山健吾の顕彰碑を建て、お墓の横、小学校近く桜坂地区に置かれました。
平成30年3月には顕彰碑のみ旧上野小学校体育館付近に移されました。
お墓の場所は変わらず、直系とされる上野の奇藤さんという方が守っているそうです。
しかしこのように少し英雄の割に寂しさを感じるお墓ですが、やはり罪人という事で、質素なものしか出来なかったのではないかと地元の方が話します。
しかしながら、一下級武士が朝廷と直接交渉出来ることは難しい事と思われますが、京都の僧寛隆が上野の正念寺の住職で、息子に譲り京都へ行ったとの事で、朝廷とも繋がりのあった寛隆、その繋がりでこの寛隆が朝廷との仲介役になったのではないかと思われます。
藤江監物もそうでしたが、功績を称えられるのは亡くなった後の事も多く、その名は現代にも忘れてはいけない人物の1人ではないでしょうか?
参考文献
高千穂の故事伝説・民話 高千穂町老連
鬼降る森 高山文彦著
Special Thanks
田辺清緑氏