甲斐宗摂 其の1
慶長4年(1599)高千穂48塁の一つである現日之影町の中崎城主、甲斐宗摂は縣藩主、高橋元種に攻められ、高千穂町と日之影町の堺、鶴の平で自決しようとしたところ、元種の追手、又助は切腹する前に首を落としたという。
これにより、戦国領主である甲斐氏は滅びた。
今でも日之影町大人地区では生前宗摂が好きだったという歌舞伎が伝承されて、大人神社に『宗摂八幡』として合祀され、村人からも慕われていたことが分かる。
さて、少ない資料の中で甲斐宗摂という人物がどのような人物であったのか、まとめていこうと思う。
まず、『甲斐』という苗字は非常に多い。
この『甲斐』氏の起こりの説として、肥後の豪族『菊池』一族の家督争いが関係する。
時は鎌倉。家督菊池武房死去後、武房の長男、隆盛は早くに亡くなったため、その子時隆に継がせようとする派と、武房の子の武本に継がせようとする派に分かれ対立。
争いは一族の間では決着がつかず、幕府の裁定を仰いだ。
幕府は時隆に相続権を認めたが、敗訴した武本は激怒し、時隆、武本両者とも斬り死にしてしまった。
そして、時隆の弟武時が継いだ。
武本の子、武村は甲斐の国(山梨県)へ赴いた。
その後は、地元の豪族『畠山』氏と縁を結ぶなど、定着していったという。
時は南北朝の戦乱の世。武村の孫、重村は北朝方の甲斐国で実力を持つようになり、肥後守として故郷に錦を飾れることで喜びもひとしおであっただろう。本国の『菊池』氏に対抗するため、『甲斐』氏を名乗った。よって、のちに日向国へ入り、日向甲斐氏の祖は『菊池』氏であったという説は有力なようである。
九州へ入った甲斐重村は北朝方として、豊後の大友氏を頼り、大友氏と共に南朝方の菊池を攻めた。
菊池の家督は武時の子、武重が重村軍を迎え撃った。
かなり激戦となったが、重村は敗れ豊後へ逃れた。
大友にとっての厄介者である考えられた重村は隣の同じ北朝方の日向、土持氏へ頼らせた。
土持氏は客分として快く受け入れ、現北方町へ住まわせたというが、南北朝時代も終わると、高千穂三田井氏に臣従し、三田井氏も快く迎えた。
その直後、三田井氏の家臣の手の及ばない人口の少ない地域へ一族を分散させ、これがのちに高千穂郷では大きな力となり、肥後の国へも伸びていくのである。
日向甲斐氏の異説として、武村の子が日向土持氏の婿になり、その子孫が重村で菊池氏との戦いに敗れた後、高千穂へ逃れ三田井氏を頼ったという説もあるという。重村が日向甲斐氏の祖であることは同じようである。
戦国時代に入ると、九州地方も大友、島津を中心に大きく乱れた。
甲斐一族も増え、一族の勢力争いも増えてくる。
中でも強い勢力を持ったのが、御船城主甲斐親直(入道名:宗運)である。
高千穂町向山地区に黒仁田という集落があるが、ここの出身であるとされる甲斐氏黒仁田豊後守は娘を宗運の子親秀に嫁がせたが、日向の伊東氏と密かに通じているという情報が阿蘇氏にはいり、黒仁田を殺せと宗運に命令した。
宗運は親秀の嫁に「お前の父であるが、主君に背き討てと主命である。どちらにつくか?」の問いに、「仕方ありません」と義父の宗運についた。
黒仁田には子守歌として
かわいそうだよ黒仁田殿は けさのみさけで殺された
と残っているそうだ。
後に、宗運は自分の子ですらも伊東氏につながっているとあれば、殺したという。
親秀の子に娘があり、母としては、実父を殺された恨みとして、自分の娘に仇を討ってくれと話す。それを聞いた娘は、祖父である宗運を
温泉に誘い、毒殺した。宗運75歳であったという。
さて、この宗運の次男とも孫とも言われているのが、甲斐宗摂という人物である。
大友と島津の一騎打ち、耳川の戦いで大敗を喫した大友は不信に思われるようになり、三田井氏の家臣である甲斐宗摂も状況を早めに察知し、島津方につくことを決め、大友の家臣である入田氏などにも島津方につくよう説得したようである。県北に詳しい宗摂を仲間に入れられた島津は苦戦していた高森城も落城した。
大友は宗摂に協力してくれるよう手紙を送ったというが、その手紙を島津方に転送し、大友の働き方を島津へと知らせたのである。
宗摂としても、早く島津に大友を攻め、決着をつけてほしかったのだと考えられる。
まず島津は大友に落城させられた縣の松尾城を攻め、前の城主であった土持氏の子孫親信が松尾城を取り戻すことができたのである。
しかし、大友をもう一歩のところで、なかなか攻め落とすことが出来ぬまま、大友は秀吉を頼る。
もともと九州も手中に収めたい秀吉はこれを機に九州入りする。
島津もこれには降伏を申し入れ、縣の土持の再興はならなかった。
秀吉は九州国割という施策を打つ。
飫肥、曽井、清武を伊東祐兵
諸県軍を島津久保
佐土原、都於郡、三納、穂北、新田を島津家久
木城、財部、櫛間を秋月種実
そして、縣、三城(日知屋、門川、塩見)、宮崎を高橋元種に与えた。
残念ながら、縣を治めてきた土持氏の名はなく、無念であった。
高橋元種が縣庄へお国入りしたのは、天正15年(1589)の冬であった。
三田井氏としては、新たな統治者は決まったものの、秀吉から領地を没収されたわけではなく、家系の古さ、由緒を誇り、以前のまま認められているものと思っていたと考えられる。
高橋としても、三田井氏が追放され、滅亡し領地をもらったわけではなく、納得がいかなかったのであろうと思う。
『延陵世鑑』には
そもそも我が家は、祖母嶽明神嫡孫、高千穂太郎政次以来他の妨げなく既に数百年の星霜を送れり。然るに将軍より高橋というものに賜る由、心得難き仕方なり
と書かれているとのこと。
向山地区椎屋谷にある中山城址(現中山キャンプ場)
三田井氏は高橋氏に臣仕することもしないため、使いを送り言うには
「貴殿ではなかなか参勤が大変なことだろうから、私が参勤の際に、うまく言っておきますよ」と言われ、三田井氏も「何卒宜しくお願い致します。」と伝えた。
ところが、高橋元種は秀吉に「三田井氏は野心を抱いており、諸国の浪人を召し抱え、その上参勤もせず、逆心を企てているに違いません」と伝えるのである。
秀吉は怒り、攻め滅ぼすよう指示し、「それならば、私は詳しくわかっているのでお任せください」と懇願し、「では、そなたに任せよう」と仰せつけられたと「高千穂治乱記」に書いてあるという。
いよいよ攻める口実ができた高橋元種は、戦略を考えた。
まだ、縣へ入ってきたばかりで、土持氏の旧臣も残っていたり、臣仕する者との主従関係も浅く、状況次第ではひっくり返されるとも限らず、内部に反逆者を出そうとした。
高橋元種は元々秋月氏の血筋で高橋家に養子に入ったもので、若いながらも戦略に長け、視野も広い人物であると私は考える。
今の延岡城付近の町つくりの基盤を作ったのもこの元種であり、頭もよかったのだと思う。
さて、その内部の反逆者として考えられたのが甲斐宗摂なのである。
つづく
【参考文献】
甲斐党戦記 荒木栄司著 1999年 第2刷
高千穂太平記 増補版 西川功著 1987年発行
高千穂村々探訪 甲斐畩常著 1992年発行
伝承あまのいわと 伝承天の岩戸編さん委員会発行 1989年発行
まんがのべおかの歴史物語 漫画しいやみつのり 企画監修延岡史談会 2020年発行
郷土の自然と文化財 日之影町文化財調査委員会発行 1983年発行
日之影町史 四 資料編2 村の歴史 日之影町編集発行 1999年発行