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甲斐秋政という人
甲斐秋政という武将を知っているでしょうか?
肥後国矢部の庄、戸土呂の城主である。
彼を説明する前に先に言っておかなければならない事があるが、
高千穂町大野原に大野原亀山城がある。
ここは城跡として、現在碑が建っている。
ここは土塁の跡なのか、山を削って整備されたのか、これを書いている今は確認がとれていないが、土堀のようなものがある。
さて、ここは高千穂を治めていた三田井氏のお城48塁の1つであり、岩戸城主『富高大膳』の長子『富高長義』が亀山城城主。
延岡藩主、高橋元種が高千穂を攻め、まずは三田井の殿様三田井親武を滅ぼした後、亀山城も攻めた。
家臣の藤田左京は長義とその弟達を逃し、自分は自害し、亀山城はおちた。
※ 藤田左京は今地元の人に藤田大明神として祀られている。
長義はそこで、冒頭に出てきた甲斐秋正を頼り、戸土呂城へ逃げのびた。
高千穂治乱記には三田井家の家臣とある。
加藤清正の小西攻めに協力し、小西の家臣、結城弥平次の守る愛藤寺城を攻めたが、その隙に加藤清正が秋正も討とうとした。
秋政は五ヶ瀬町三ヶ所まで逃れたが、地元の豪士、甲斐源太左衛門が矢を射かけ、秋正は目を負傷する。
源太左衛門は高橋元種の家臣になっていたと考えられている。
それでも秋政は逃れ、日之影町岩井川で一泊し、山越え諸塚村家代へ出た。
次の日七つ山の方へ向かい、国見峠に差し掛かった時に高橋家臣甲斐与惣左衛門が人数を率いて待ち伏せし襲いかかった。
その時、24歳の青年、大野原亀山城城主であった富高長義が奮戦し与惣左衛門の兵を追い落とした。
しかし、敵の兵は200人程であると知ると、もはやこれまでと、秋政に自害を勧めた。
秋政は自刃、長義が介錯し、その後自分も自害した。
さて、この甲斐秋政という人物は系譜が不明となっている。
この場所より更に諸塚方面へ行くと、『金鶏寺』に遺品が残っているという。
墓碑には慶長2年とある。
しかしながら、前述した加藤清正と小西の戦いに巻き込まれたとすれば、関ヶ原合戦に連動した戦いということらしく、慶長5年のことになる。
ズレはあるものの、甲斐秋政という武将がいて、自害したということは事実と思っても良いとのこと。
いくつかの遺品、遺物がのこされており、存在を示していると言っていい。
秋政という人物は故郷の血縁者も匿いきれない程の、また討ち取れば手柄になるほどの人物であったといえる。
その後、三田井家の家臣であった甲斐宗摂。
三田井を裏切り、高橋に、寝返るが、自身も同じ理由で高橋に攻められ殺されてしまう。
宗摂が亡くなったことで、戦国甲斐家の終わりを告げた。
これは甲斐秋政の像とされ、金鶏寺は宗摂が東蔵寺を改名したといわれている。
向かって右側は宗摂の位牌である。
また、わかりにくいが左側の位牌の前方にある黒っぽくなっているのが、秋政の位牌である。
甲斐宗摂に関しては、また改めてまとめたいと思っている。
参考文献
西川功著 高千穂太平記
荒木英司著 甲斐党戦記
高千穂の故事伝説・民話
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