玄武山正念寺について
上野地区には玄武山正念寺があります。
正念寺 (Shonenji)
https://g.co/kgs/c7rnMN
最近ではロッジも建てられ、国内外の旅行客が訪れます。
https://shonenjitemplelodge.com/
正念寺の住職は吉村家です。
現在は吉村順正さんで、17代となります。
1578年建立で約440年の歴史があります。
玄武山には三田井家48塁の1つ、玄武城がありました。
玄武公民館前には説明看板もあります。
天正6年(1578年)大友宗麟の別隊によって落城しました。
城主は吉村惣右衛門(種共)
大友、土持、島津、伊東と九州地方の戦乱の中、大友が現在の延岡を支配していた土持を攻略しようと途中、土持と通じているという情報を得て玄武城を、攻めました。
惣右衛門は上野、田原の兵糧を城中に運び「土持、島津の援軍が来るまでだぞ!!」と山城の長期籠城を覚悟します。
しかし、水の不足が弱点。
水の手を切られ、補給のつかない吉村方では米を滝があると見せるように米を落とし、大友勢を驚かせたという逸話もあるそうです。
本当かどうかは分かりませんが、本当なら滝のようにみせるなら相当な米の量だったことでしょう。
最も険しい山上にある城のため、攻めあぐんでいましたが、大友勢に内通するものがいたために遂に攻められてしまいます。
惣右衛門と妻は忠臣の南藤信忠に助けられて滝下という所へ逃れますが、人数があまりにも多く「もはや、これまでか」と妻と共に自刄します。享年61歳でした。
信忠も討死してしまいます。
この地にお墓があるそうですが、まだ私は見に行けていませんので、今後行ってみたいと思っています。
この付近、田井本という地区には屋号が「やしき」「西の園」「東の園」「垣内」「大門口」と残っており、城主の住居屋敷があったのかもしれません。
この地図の10番吉村惣右衛門妻の墓と思われる塚は見つけることができました。
地元の方に教えてもらわなければ、気づかなかったと思います。
近くには三田井姫君のお墓もあるそうですが、発見できていません。
さて、吉村という氏は秋月家の一族で惣右衛門の父、種雄(種員)は大友宗麟に攻められ、宮崎へ隠れ住み、そこで吉村の姓を名乗って高千穂へ来て、三田井親武に近づき、武将として玄武城を築いたとされ、惣右衛門が成長したので、城を息子の惣右衛門へ譲り、自分は仏門に入り、吉村道休入道といい、城内に屋敷を作り仏壇を設け信仰の道に入ります。
玄武城落城後、菅木というところで、父である吉村種雄道休と先に入道していた実種入道正善を頼り、沢山の戦死者の供養を行い、一寺を建立。後に惣右衛門の弟も成長し、慶長年に念仏寺称名山正念寺が誕生したとなっています。
正善は興梠実種といい、吉村家の重臣でしたが、武門を捨て仏門に入り開基したのが正念寺の始まりとも言われています。三田井親武の姉、園姫が京都内大臣後関白となった藤原種道の九條家に仕えていた際、種道の子を宿し、高千穂へ帰り、三田井氏の重臣、興梠家に嫁いでから生まれたので、興梠氏と名乗ったと言われています。成長して、吉村家に仕えますが、もともと姻戚関係だったそうです。
正念寺の9代と10代目の住職が仏典を集め和尚自らも集録し、正念寺文書として今も古文書が残されているそうです。
少し話が変わりますが、正念寺近くには福祉施設がありますが、そこにはコミュニティバスのバス停があり、その名前は王の宮と言います。
この向こうの山付近には高千穂郷八十八社の1つ、王の宮があったとされます。
おそらく、この辺だろうという事で、まだ分かり兼ねている次第です。
地元の看板に天照様と呼ばれるところがあります。
ちょうど、この山向こう付近になります。
ちょっと見えづらいのですが、どうやらここは、玄武城へ早く敵を知らせるための太鼓を鳴らしのろし火をあげる玄武城の出城であったようです。
大きな蜂の巣があったので、すぐに退散しました。
まだまだ足りない事もあるのですが、今現在、私自身が得ている事をまとめてみました。
参考文献
甲斐畩常著 高千穂村々探訪