第32話 警報機 【自作小説】桜の朽木に虫の這うこと
「『学校』っていうところ、知ってる?」
「ガッコウ……俺は行ったことはないけれど、たくさんの人が集まって、勉強をするところなんだよね? お師匠様から話で聞いたり、本で読んだ程度の知識しかないけれど」
「あ、ごめん……やっぱり、やめようか……? こんなことをしてたら、ウツロくんまで……」
「いや、俺は平気だから。それに、『ごめん』はなしだよね?」
「ん……」
「気にしないで、続きを聞かせてよ」
「うん、わかった……気に障ったら、すぐやめるから……」
「全然かまわないから、お願いします」
真田龍子は慎重に、言葉を選びながらウツロに語りかけた。
「その学校でね、虎太郎は……その……いじめにあっているんだ……」
「いじめ……」
「暴力を振るわれたってわけじゃないんだけど、周りのみんなから、いろいろからかわれたりね」
「……」
「虎太郎って、頭の中ですごく考えすぎちゃう癖があって……それでなかなか、行動に移すのが苦手なんだよ。それを学校では、のろいとか、どんくさいだとか、勘違いされちゃってね。いちいち指摘されて、冷やかされたりしてるんだ」
「そんな、ことが……」
「一度、雅のお母さん……朽木市の病院で、精神科医をやってるんだけどね、相談したことがあるんだよ」
真田虎太郎を診断した星川雅の母は、真田龍子にこう告げた。
「軽度だけれど、ASDやADHDの傾向があるわね。いわゆる発達障害のグレーゾーンよ」
弟が発達障害――
この事実は、当時まだ中学生だった彼女には、受け入れがたいものだった。
「虎太郎は、その……障害者……なんですか?」
不安を隠せない彼女に、星川雅の母は、こう言いきかせた。
「龍子ちゃん、よく聞いて。発達障害は障害というよりも特性、つまり個性ね。そんなもの、誰でも持っているものでしょう? いわゆる発達障害は、それが少し強いというだけなのよ。ある基準以上だったら、医学的にそう定義されてしまうというだけでね。虎太郎くんは素晴らしい個性を持っているわ。それは当然、誰かに否定される筋合いなんてないし、そんなことをする連中こそ、否定されるべき存在なんじゃない? だから気を落とさないで。姉として虎太郎くんを見守ってあげるのよ。もちろん無理は禁物だからね? もしつらくなったら、いつでも気兼ねなく、私のところへ相談しに来ていいから」
真田龍子はその言葉を頼もしく思ったが、現実は厳しいものだった。
真田虎太郎をとりまく状況は、そうやすやすとは変わらない。
姉である真田龍子にとっても、それは耐えがたい重荷だった。
気が強い性格とはいえ、まだ彼女も、幼かったこともある。
次第にそのストレスは誰あろう、当事者である弟へと向けられた。
ある晩、苦しみを吐露する真田虎太郎に、理性のタガが外れた真田龍子は、激しく呪いの言葉を吐いてしまった。
弟のおびえる顔を目の当たりにし、姉はみずからおこなってしまったことを激しく後悔した。
翌日の夕方。
真田龍子は下校中の通り道で、遮断機の下りた踏切に入っていく弟の姿を目撃した。
けたたましく吠える警報機の音が、公開処刑に歓喜する見物客の嘲笑のように聞こえた。
真っ赤な夕焼けはこれから起こる惨劇の結末を予見しているようだった。
間一髪、電車が踏切を通過する直前で救出した姉に、弟はこう囁いた――
姉さん、ごめん
「姉さん、ごめん……あろうことかわたしは、虎太郎にそんな言葉を吐かせたんだ。そこまでわたしは虎太郎を追いつめたんだ。虎太郎の苦しみに、一番よりそってあげるべきわたしが……わたしが虎太郎を殺そうとしたんだ。虎太郎をいちばん憎んでいたのは、わたしだったんだ……クズだ、人間のクズなんだ、わたしは……」
真田龍子は体を丸めて震えだした。
その表情は恐怖にゆがんでいる。
ウツロは何も言えなかった。
いったい何が言えるというのか?
弟を死に追いやろうとしたという、強烈な自責の念に駆られるこの少女に。
彼女もまた、自己否定に苦しんでいる存在だったのだ――
「警報機の音がね、鳴りやまないんだよ。あのとき以来、わたしの頭の中では、あのうるさい警報機の音が、いまでも鳴りつづけているんだよ」
真田龍子は体を丸めたままうなだれている。
その視線は遥か遠く、過去の光景と、そしていまの自分と、向き合おうとしているようだ。
ウツロはそれを感じ取りながらも、どう声をかければよいのものかと考えあぐねていた。
真田さんと虎太郎くんに、そんなことがあったなんて……
細かいところはわからないけれど、苦しい体験をして……
いやおそらく、いまも必死に戦っているのだろう。
それなのに、俺に対しては気丈に振る舞ってくれた。
もちろん、俺を気づかってのことだ。
それにどれほどの、強い精神力がいるというのか?
俺とは大違いだ。
俺はまるで、自分だけが不幸であるかのように考えていた。
違いはあれど、誰だって苦しいのだ。
それを押して、明るく振る舞えるこの強さ。
いや、向き合っているからこそ、彼女は強いのだ。
これが「人間」の力なのか……
「ごめん、ウツロくん」
「あ……?」
「せっかく誘ってくれたのに、こんなことを話してしまって……もう、この辺にしておくね」
「あ、いや……」
「わたし、ウツロくんの服を繕っておくから。変わった素材だったから、どこまで直せるかわからないけど……あ、ウツロくんはゆっくりしてて。もし何かあったら、遠慮しないで声をかけてね。じゃ、ありがとう」
「あ、うん……」
彼女は足早になるのをこらえたが、ウツロはそれに気がついていた。
もちろん真田龍子としては、ウツロを不快にさせてしまったのではないかという、申し訳ない気持ちからだったし、ウツロ自身もそのことは頭の片隅にはある。
だが、彼女を部屋に呼びとめたのはそもそも自分であるし、もっと気のきいた返しができればよかったのにという後味の悪さが、彼の心をまた不安にさせた。
「真田さん、俺は……」
先ほどの彼女のように、ウツロは体を丸めて、沈んでいくように両膝へ顔をうずめた。
(『第33話 奴隷道徳』へ続く)