第55話 ウツロなアクタ 【自作小説】桜の朽木に虫の這うこと
「わしが似嵐の家を飛び出した、そのあとの話だ……」
似嵐鏡月は遥か遠い眼差しで、昔のことを思い出した。
「アクタはすっかり、抜け殻のようになってしまった……それほどあのとき、姉・皐月の謀略で与えられたトラウマは深かったのだ、あまりにもな……うつろな目つきでただうなだれているだけ……ろくに動くこともせず、表情も変わらず、食事といえば栄養剤の点滴がほとんど……わしのことをわしだと認識すらできない、そんな状態だった。わしは傷ついたアクタを連れ、遠く海を越え、アメリカへと渡った。彼女を世界でも最新の医療技術を有するかの国で、ゆっくりと静養させたい。そんな願いからだった……」
アクタの受けた不条理、それを語る彼の口調は、ゆらゆらと揺れるロウソクの炎のように不安定だった。
「アクタの治療にかかる金のため、わしは民間の傭兵、よりまとまった金を得るため、カタギではない組織を選んだが、そこで必死に働いた。いま思えば、目を覆いたくなるようなことも、たくさんやった。だがすべては彼女の、アクタのためだった。皮肉なことだが、そのおかげでわしは、アクタに当時最高の治療を与えることができた。しかし現実とは残酷なもの。アクタが負った心の傷は、想像以上に深いものだった」
山犬と化した異形の男は、おどろおどろしいその顔をしわくちゃにゆがめて、激しく嗚咽した。
「かわいそうなアクタ……わしは絶望したよ、その現実に……いや、彼女に何もしてやれない、自分自身にな……悪魔が、あの女が現れるまでは……」
「あの女」とは?
「悪魔」とはいったい、どういうことだ?
桜の森に居並んだ少年少女たちは、意外な話の展開に生唾を飲んだ。
「グレコマンドラ・ジョーンズ……当時若干40代で、すでに世界の名門・ハーフォード大学の名誉教授だった、精神医学・脳神経科学の最高権威……天才の名をほしいままにする彼女が、ひょっこりとわしの前に現れた。そして、悪魔の誘惑を持ちかけた……」
(『第56話 魔女グレコマンドラ』へ続く)