第52話 毒虫の鏡月 【自作小説】桜の朽木に虫の這うこと
「人間って、何だろう?」
昼下がりの竹林を着物姿で散策しながら、当時十六歳の少年・似嵐鏡月は、そんなことばかり考えていた。
「なぜ僕は人間であって、虫ではないのだろうか?」
石畳の上に、それは矮小な一匹の毒虫が這っているのを見つけた。
彼はしゃがみこんで、その毒虫をじっと観察した。
「お前は、いいね」
名前もわからないような毒虫に、彼は語りかける。
「人間は、疲れる。僕は、君になりたいよ」
似嵐鏡月の頬を滴が裂いた。
*
京都の山深いところに、似嵐一族の屋敷はあった。
辺りは一面、杉林。
鏡月は次期当主となるべく、姉・皐月とともに、父・暗月から、厳しい鍛錬を課せられていた。
「あらら鏡月、もうへばったん? あんたが珍しく稽古をつけてくれなんて言うから、せっかくつきおうてあげとるのに。ほんに、ダメな弟やね」
似嵐皐月は両手に持つ大刀・両面宿儺をしまいながら、深いため息をついた。
「鏡月っ! なんや、そのザマは! 次期当主としての自覚がほんにあるんか!? わしに恥をかかす気ぃかいな!?」
似嵐暗月のしごきは常軌を逸していた。
それでも鏡月は次期当主の座を嘱望される身として、父に、そして姉に、必死で応えようとしていた。
「お父様、鏡月は似嵐家の当主より、哲学者なんぞに向いとるん違いますか? なにやら一生懸命、そげな本を読んどるようですし」
「そうやもしれん。まったく、人間がどうたらなんぞ、考えんのになんの意味があるんやろうかの。はーあ、似嵐の家も、わしの代で終わりか。こん、面汚しがっ!」
*
「僕はきっと、向いていないんだ、人間に……だから、君になりたい……僕は、毒虫になるんだ……」
そっと手を伸ばす。
指先が触れる。
ほら、もう独りじゃないよ――
「若様っ!」
竹林の奥から響いた声に、似嵐鏡月は急ぎ、着物の袖で涙をぬぐった。
似嵐一族の者より数段、貧しい着物をまとった少女が、彼の元へ駆け寄ってきた。
「若様、お館様からひどく叱られていたようですが、大事はございませんでしょうか?」
「アクタ、ありがとう、心配してくれて。でもここにいたらダメだ。僕といっしょにいるのが父上に知られたら、またせっかんされてしまうよ」
「何をおっしゃいますか。若様はわたしのようないやしい身分の者にも、やさしく接してくださいます。わたしは若様のためなら、この身だって捧げる心づもりなのです。それがたとえ、魔道に落ちるようなことであったとしてもです」
アクタは身寄りのない子だった。
物心もつかない頃に拾われ、似嵐家の小間使いとして、劣悪な環境で働かされていた。
「アクタ」とは「芥」、「ゴミ」という意味を込めて、似嵐暗月がつけた名だった。
だが、彼女は幸せだった。
鏡月だけは心を許し、大切にしてくれていたからだ。
若様だけは、わたしを人間扱いしてくださる――
それがなによりうれしく、唯一の生きがいだった。
鏡月もまた、純粋に自分に尽くしてくれるこの少女に、身分の差を越えた想いを抱いていた。
それはいつしか、特別な感情に変わっていた――
「アクタ……!」
「――っ!?」
似嵐鏡月は、アクタを抱きしめた。
「おやめください、若様! 身分が違いすぎ――」
口づけ。
アクタの思考は吹っ飛んだ。
ああ、信じられない。
「願い」がかなった。
絶対にかなわないはずの願いが――
うれしい。
こんなに幸せで、いいのだろうか?
「ん……」
見つめ合い、ほてった顔を互いに確認した。
「若様、どうか、こんな浅ましいわたしを、お許しください……」
「僕のほうこそ、こんなことをしてしまって……許しておくれ、アクタ……」
竹林の静寂は、二人の愛をしばし、世界から封印した――
*
事の一部始終を、竹林の奥から観察していた者があった。
鏡月の姉・似嵐皐月だ。
彼女はペロリと舌をなめ、その場から姿を消した。
『事件』が起こったのは、明くる深夜のことだった――
(『第53話 人間』へ続く)