グラスと水
数年前、思想論ばかり書き殴っていた頃。
「こうあるべき」
「私はそう思う」
そんな言葉を取り憑かれたように並べていた。
「正解」を探していた。
「正解」が存在すれば安心出来ると思っていた。
「正解」の道を歩めば救われると盲信していた。
数年後、「神様」が存在しない事を幼心に確信した時と近い感覚で「正解」も存在しない事に気が付いた。
自分らしさすら手探りで探していた事が嘘かのように気が楽になり、全ては
「在るように有り、為るように成る」
そう思うようになってからは笑顔が増えていった気がする。
笑顔が増え繋がりが増え、行動範囲が広がり視野が広がり。
以前に比べると考えられない程の充実感。
相応の対価と引き換えに奔放が赦される日々に後悔など微塵も感じない。
ただ麻痺しているだけなどという事は錆びた小箱に仕舞って蓋をする。
「大人しく」の「大人」は成人の事を指すのだろうか。
なら私は相当に子供なのだろう。
だからこの混沌とした現状を愉しめる。
この愉しみを手放すくらいなら命を手放した方がまだマシだとすら思ってしまう。
そのくらいにはにかつてないほど「生きている実感」とやらを噛み締めている。
通りで「普通の幸せ」が手に入らないワケだ。
もう要らない気もするけれど、もしかしたら。
いつか終わる頃に求めるのかもしれないけれど。
私は「好きな人」はいくらでも増やせると感じている。
ただ「大切な人」は増やせない、手が回らない。
「大切な人」に対しては勝手に守りたいだの助けたいだの思い行動を起こしてしまう。
その点を考えると現時点で長く関わっている人たちとの相性はとても良い。
私の「大切な人」は私の「守りたい」「助けたい」を跳ね除けてくる。
そして自分の足で歩いている。
互いに見守るだけの関係は心地いい、丁度いい。
所謂「距離感」が完成しているのだろう。
時間と相性、そして縁で成り立っている。
相性で言うのなら「グラスと水」の関係もいい。
水の量がグラスのキャパシティの範囲内なら受容可能だ。
そして互いを邪魔しない。
「重なった世界が少し歪むだけ」で済む。
私にとって「大切な人」は「グラスと水」に近い関係にある気がする。
もっと他にも喩えはあるのだろうけれど。
何年も前から言っているもので。
「水の量とグラスの数は比例する」んだと。
もしも、仮に。
「水の量とグラスの数が相対的に増えた」のだとしたら。
私は「大切な人」を今以上に増やす事が出来るのかもしれない。