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「フィフス・エレメント」とは?
拝啓 奥さんへ
人類が発明し、議論し、生命を捧げたものを形づくった四つの要素があります。「擬人化」、「ストーリーテリング」、「二元論」、「比喩」です。これらの四つは、グローバル化とコンピュータテクノロジーによって高度に絡み合った現在社会の価値、希望、悪夢を形作り続けています。
心の性質について、心を人工的に再現できるどうかについて論じるためには、これらの四つの要素を理解することが極めて重要です。心の哲学、科学、技術を検討する前に、比喩の力についてははっきりとした展望を掴んでおくことが大切です。しかし、ポスト構造主義の論客たちが言うように、本当に比喩から永遠に逃れない奴隷になってしまうのでしょうか。比喩からの逃げ道はないのでしょうか。
幸い、進化は偶発的な神経の繋ぎなおしに際して、もう一つの副産物を作っており、それが私たちのあり方や私たちが作ってきている世界のとって信じられないような意味を持っています。この第五の要素(フィフス・エレメント)は、瞬間的なこと、個人的なことを超えて、抽象的なこと、絶対的なことを考える可能性を生み出しているという点で、ほかの四つの心の要素とは異なります。
実際、抽象とか絶対という言葉を生み出したのが、このフィフス・エレメントです。私たちの意識の中で最も深く、最も謎に包まれた部分でもあります。フィフス・エレメントとは自己認識のことです。自分が考えるということを考えること、他人の考えを観察できること、自分自身と他人の内面世界を意識していること、自分の中で対話できることこそ、進化の歴史の限界から抜け出す脱出口なのです。
自己認識は、比喩からの救いの道でもあります。そして、自由意志という贈り物を与えてくれたのもの、自己認識です。私たちは自分の限界を知ることができ、その限界に何かの対処をすることができます。
上記のことはすべて完全に非論理的です。だからこそ、古代以来、自己認識は論理学者、哲学者、科学者、数学者を困惑させてきたのです。それでいて、私たちは自分が自己認識を持っていることを知っています。おそらく、デカルトが言ったように、自己認識があることは唯一確かだと思えることです。しかし、だからといって、私たちが自己認識のメカニズムを理解しているわけではありません。
私たちの心には、自分自身についての情報を耐えず供給するフィードバックループがあるらしい。任意のタイミングで私たちのは自己認識のスイッチを入れ、自分が何をしているのか、どこにいるのか、何を考えているのかを意識できます。ここで大きな疑問は、自己認識がこの情報を誰に供給しているかです。私たちが物語だとすれば、ナレーターは誰なのか、私はどこにいるのか。
フィードバックループは、制御理論やサイバネティクスだけではなく、すべての生物系で一般的になっています。外部信号が増幅され、システムにフィートバックされる自己言及機能が自己、知能や意識の本質なのでしょうか。多くの研究が私たちはフィードバックループであり、意識は、脳内の神経路を介して情報を供給する再帰的なプロセスに過ぎないという論理的帰結を導いています。私たちはフィードバックループなのでしょうか。それとも、物理的な脳を超えた何かが自己認識を引き起こしているのでしょうか。魂はソフトウェアでできているのでしょうか。
今回は少し哲学的なつぶやきになってしまいました。人工知能のような抽象的なことを考えていると、具体的なことが疎かになるのでいけませんね。目の前のことに集中しないと。多謝。