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道元「正法眼蔵」を読む

拝啓 奥さんへ

「正法眼蔵」は、鎌倉時代の曹洞宗の開祖・道元の主著(未完)です。
「正法」とは、正しい教えという意味です。それは、釈迦が説いた教え、つまり仏教そのものです。それが経典となって「蔵」に納められているので、「正法蔵」になります。「眼」とは智慧です。「正法蔵」を正しく理解するためには、読む者に経典を解釈する力、すなわち智慧が必要になります。そのような眼でもって読み取れば、仏の教えを正しく理解できる、ですから、「正法眼蔵」です。

さて、禅では「不立文字・以心伝心」がよく知られていますが、まさに文字(言葉)を立てずに、心から心へ真理を伝えていくのが禅です。では、釈迦の教えを正しく読み取る力を、書物を通して伝えようとした道元の行為は、矛盾になりはしないでしょうか。確かにそうかもしれません。しかし、彼はその矛盾にあえて取り組んだのです。その背景には末法思想があり、「南無阿弥陀仏」を称えるだけで極楽往生できるという念仏宗の信仰が盛んになっていました。しかし、道元はそれに反対しました。釈迦の教えを正しく伝える者、つまり「正法眼蔵」を持っていること者がいれば、釈迦の教えが廃れることはないと考えたのです。道元は、たとえ末法の世になったとしても、仏教の真理を正しく読み取る眼が後世に伝わるように、自らの智慧を言語化して残そうとしたのです。

そういう意味で、道元は禅僧であるとともに、偉大な哲学者だったのではないでしょうか。哲学とは、人間の理性、つまり言葉でもって、人類普遍の真理を構築する試みです。「正法眼蔵」は単なる禅の書物としてではなく、仏教を理解する智慧をなんとか言語化しようと試みた道元の、その哲学的思索の跡なのです。

身心脱落とは?

道元は「身心脱落」という言葉によって悟りの境地に達しました。したがって、道元禅の本質は、「身心脱落」にあります。では、「身心脱落」とは、どういうことでしょうか?文字通りの意味でいえば、身も心もすべてえ脱落させるということです。その意味するところは、あらゆる自我意識を捨ててしまうことです。私たちは皆、自我をもって生活しています。その自我のぶつかり合いでお互いを傷つけあっています。それならば、そんな自我は全部捨ててしまえというのが「身心脱落」です。しかし、身心脱落は自己の消滅ではありません。自分を悟りの世界に放り込み、そこに溶け込むということです。そうすれば自我というものが脱落した状態になります。道元はそういうふうに気がついたのだと思います。

人は普通「悟り」というものがあって、禅はその悟りを捉えるものだと思っていますが、道元の教えだと、身心脱落して「悟りの状態・境地」に溶け込んだことになります。つまり、「悟り」は求めて得られるものではなく、「悟り」を求めている自己のほうを消滅、身心脱落させるのです。そして、悟りの世界に溶け込む、それがほかならぬ「悟り」です。「悟り」の中にいる人間を仏とすれば、仏になるための修行ではなく、仏だからこそ修行できる、それが道元の結論になります。

仏道をならふといふは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり

正法眼蔵

夫はこれを読んで西田幾多郎の「主客未分」の概念に似ているなと思いました。主客未分とは、何かに没入して私(主観)と外部の何か(客観)が一体となった状態を指します。たとえば、すばらしい音楽に心を奪われて聴き入っているような状態が主客未分の状態です。そこから、純粋経験(主観と客観が分化する以前の意識の統一状態)が現れてくるのではないかと思いましした。繰り返しになりますが、「正法眼蔵」は仏の教えであると同時に哲学書ですね。

誤解されがちな「悟り」

私たちは、迷いがなくなった状態が「悟り」だと思いがちです。迷いというのは煩悩であって、その煩悩を断じ尽くした末に得られるのが悟りだと思っているのです。それは誤解です。夫もそう思っていました。

悟りとサンスクリット語のブッダとは語源が同じで、ブッダとは「眼が開ける」という意味です。これは自動詞です。「〇〇を悟る」という他動詞ではないのです。ですから、悟ったといっても、宇宙の真理を知り尽くしたがゆえに、迷いが消滅する、ということではないのです。目が開いた状態の中にも迷いはあるのです。

道元は、迷いが消えた末に得られるのが悟りだという考えを否定しました。迷いには実体がありません。実体がないのですが、その迷いを消滅させることはできないのです。私たちは、迷いをなくそうとして、悟りを得ようとしますが、それは間違いなのです。そもそも迷いも悟りもありはしないのです。ここは仏教の本質かもしれません。

では、何があるのでしょうか。道元によればそれが身心脱落です。「万法ともにわれにあらざる時節」です。これは身心脱落したあとでの世界観です。自我意識を消滅させ、悟りの世界に溶け込む。するとそこには迷いも悟りもなく、仏も衆生もありません。私たちの目の前にあるのは、ただあるがままの世界(現成)なのです。

「有時」とは?

「有時」という言葉が象徴するように、道元の思想は「存在」と「時」は不可分であり、存在することが時間であり、時間とは存在することであると説きます。存在というのは、次の瞬間にもやはり同じような存在です。時は過去から未来に流れすぎるのではなく、ものが存在することそのものが「時」ということです。時はまた、ものが存在するということ、事が起こるというそのものが時です。事というのは、推し進める力です。そこに時の流れはなく、唯あることがあるのです。

いわゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。

正法眼蔵

道元は、時間というものは「現在」という意味なのだと言っているのです。私たちは、時間というものは「過去→現在→未来」へと流れていくものだと考えています。しかし、道元はそうではなく、「現在・現在・現在・・・」なものだと言っているのです。どういうことなのでしょう?

人間の知能には意識があり、さらに次の瞬間にも意識があって、どんどん意識ができていきます。そして、古い意識はどんどん消えていくわけです。それは、波が次から次へと来るように、ひとつの意識が次に生成される意識に溶け込んでいくのです。これは西洋哲学でいう意識の持続性の東洋的な解釈で、時間は過去から現在へ流れるのではなく、意識がその瞬間にあることが時間であると、と説きます。

松も時であり、竹も時である。時は飛び去るとのみ心得てはならない。飛び去るのが時の性質とのみ学んではならない。もし時は飛び去るものとのみすれば、そこに隙間が出てくるであろう。「ある時」ということばの道理にまためぐり遭えないのは時はただすぎゆくものとのみ学んでいるからである。

正法眼蔵

時の流れというものはなく、存在というのはそのときどきにあるものであり、存在自体の時なのであり、今あるということが時なのです。時は存在であり、存在はそれぞれの時で隙間なく連なっているのであって、時が流れるのではないのです。それぞれの時における存在があり、それが厳密につながって、時の流れもまた人間も生み出しているわけです。時=存在の隙間ない連なりから、人間や生物は、自分自身の都合の良いコンテクストを作り出しているということです。

「有時=一つの時の全存在」であり、時の重なりは「それぞれの時(=全存在)が衝突することなく重なること」
→コンテクストは人間がこの連なりををいくつかから作り出した「時の流れ」つまり知能に必要な幻想

人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇 | 三宅陽一郎

例えば、「今日は一日楽しかった」というとき、そこにはそれぞれの時にあった多くのことをそぎ落して自分の物語を作り出しています。悲しかった瞬間があったことも省略しています。そのときどきの無数の存在の連なりから、生物は省略することでコンテクストを作り出しています。それは知能が生み出した幻想でもあります。時の流れというのも、また幻想なのだと説きます。

もう少しかみ砕くと、知能には身体から様々な情報が入ってきます。私たちは、それを身体的な行動としてアウトプットします。この身体への入力と身体の出力の間にあるのが知能です。つまり、むしろ存在としての身体と運動する身体の間、この空間を作っているのが時自身といえるわけです。

難しいですね。少なくとも夫には5%くらいしか理解できません(笑) 禅の言葉に「日日是好日」があります。「今(時)」が「あなた自身(存在)」であるから「今(時)」こそ全てであり、「今(時)」ほど大切なものは無いということです。その日、その時をかけがえのないものとして怠ることなく全力で生きましょう。

道元断筆の八つの教え

最後に、道元が菩薩が学ぶべきことを「八大人覚」に残しているので、そちらをご紹介しましょう。

  1. 小欲:物足りないものを、物たりないままにしておくこと

  2. 知足:与えられたものを、全部が全部自分のものとしないで、一部を他人のために回すこと。

  3. 楽寂静:寂静を楽しむ。喧噪の場所を離れること。

  4. 勤精進:精進に勤める。おのれ一人の利益のためにがんばらないこと。

  5. 不妄念:常に仏法を思っていること。

  6. 修禅定:心静かに心理を観察すること。

  7. 修智慧:智慧を習得すること。

  8. 不戯論:物事を複雑にせず、あるがまま、単純そのままに受け取ること。

以上、「正法眼蔵」を読んできましたが、「難しい!」と思われたのではないでしょうか。「正法眼蔵」は一種の哲学書ですから、専門家であってもすいすい読めるわけではありません。わからないことが分かることが悟りです。悟りを追いかけてはいけません。迷いをしっかりと迷うことが悟りです。一度読んで分からなければ、二度、三度読み、しっかりと迷うことが人生には必要なのだと思います。

参考:
本文は、ひろさちや先生の「すらすら読める 正法眼蔵」「NHK「100分de名著」ブックス道元 正法眼蔵」と「人工知能のための哲学塾 東洋哲学篇 | 三宅陽一郎」を参考に書きました。

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