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数学の論理(形式論理学)
拝啓 奥さんへ
「数学とは神の論理なり」
この言葉は小室直樹先生の「数学嫌いな人のための数学」の冒頭で出てくる言葉です。ちょっと意表をついた言葉ですが、「数学!」と聞いただけで、どうも苦手と腰の引けた人も、数学の論理・おもしろさに是非馴染んでもらいたいと思います。
近代数学はギリシャに始まりました。ギリシャの優れた論理学と結びついたからです。ギリシャの論理学は、アリストテレスの形式論理学に結実しました。しかし、完璧な形式論理学を人類精神として成果させたのは、古代イスラエル人の宗教でした。古代イスラエル人の宗教(のちのユダヤ教)は、「神は存在するのか、しないのか」の問いかけから始まります。それが古代ギリシャ人が人類に遺した「存在問題」に発展して、完璧な論理学へと育っていきました。
イスラエルの神は特異な神でした。それまで異教徒の神々と違い、人格神でありながら、生まれも成長もしません。自然の力に対する完全な支配力を持ち、歴史を支配する唯一独立の絶対的な主なのです。しかも、この神は生きています。そんな特異な神が、本当に存在するのでしょうか。真剣に神を思いいたせばいたすほど、古代イスラエル人の念願に神の「存在問題」が沸き起こってきたのです。
神が、彼の民であるイスラエル人に、最初に最も強く言うことは、自分が存在するということでした。預言者モーセが神の名を尋ねたところ、神は「在って在る」と答えました。これこそ、唯一絶対神を奉じる古代イスラエル人の宗教を理解するための鍵です。彼らは神との契約を根本教義とします。この契約は「破ったか」「破らなかったか」か、どちらに判定されなければなりません。契約を遵守しないと神に皆殺しにされます(例:ノアの洪水)。イスラエル人は、慄然として、思考を論理に向けて推進せざるを得なくなりました。そして、数学のための論理(形式論理学)へと収束していくのです。
本日は、「形式論理学」について学びたいと思います。数学といっても難しい数式などは出てきませんので、ご安心ください。形式論理学は三つの基本原則、同一律・矛盾律・排中律からなります。
同一律 the law of identity
矛盾律 the law of contradiction
排中律 the law of excuded middles
同一律(the law of identity)とは?
何のことはありません。
同一律 the law of identity
とは、AはAである。という法則です。
例えば、神は神である。私は、あくまで私である。日本人は、なんといっても日本にすぎない。「そんなことは当たり前じゃないか!」「同語反復(トータルジー)」にすぎないではないかという気がします。
しかし、正しく考え、正しい議論をするにためには、初めに、同一律をしっかりと踏まえておく必要があります。
古代ギリシャのソフィストは、同一律をねじ曲げた詭弁術を使って相手を混乱させました。同一律を正しく使うためには、定義を一義的に下しておかなければいけません。言葉(概念)の定義を一義的に下したら、同一の議論の途中でこれを変えてはいけません。同一の意味で用いなければいけません。
例えば、「いぬ」という概念には、動物の犬、スパイ、手下などの意味があります。
彼はアメリカのいぬ(犬)である。
いぬは動物である
ゆえに、彼は動物である。
この推理は誤りです。「いぬ」という言葉(概念)を2つの命題(文章)で、違った意味に用いているからです。同一の議論の中で、同じ言葉を二義的に用いると誤った推論に導かれます。
矛盾律(the law of contradiction)とは?
(a)AはBである
(b)AはBでない
という2つの命題があるとき、両方とも真である(正しい、成立する)ことはありません。また、両方とも偽である(正しくない、成立しない)こともない。この法則のことを矛盾律といいます。
例えば、
猫は動物である
猫は動物でない
この2つの命題は、必ず、一方だけが真で(正しく、成立し)、他方は偽(正しくない、成立しない)です。矛盾律は、数学で縦横無尽に大活躍をします。数学以外でも大演技の舞台は多いです。まさに形式論理学の華です。
排中律( the law of excuded middles)とは?
排中律( the law of excuded middles)は矛盾律の続きです。
(a)AはBである
(b)AはBでない(Aは非Bである)
2つの命題のうち、必ず、一方だけが成立し、他方は成立しない。ここまでが矛盾律です。その先に法則があり、曰く、(a)(b)以外にない。これが排中律です。(a)、(b)の中間はないというのだから排中律です。
「AはBと非Bとの中間である」「AはBでもあり、同時に非Bでもある」「Aは、Bと非B以外である」これらの命題は、いずれも成立しません。「みんな正しくない。みんな偽である」として排斥するのが排中律です。
さて、以上で形式論理学のエッセンスは終わりです。意外とあっけなかったでしょうか。それとも、なんだかしっくりこないでしょうか。形式論理学とは、本来そのようなものなのです。簡明であるから頭に入りやすいとは限らないのです。逆に、簡明であるから、かえって頭に入りにくい、自由自在には使いこなせないということもあり得るのです。詳しくは、小室直樹先生の「数学嫌いな人のための数学」を読んでください。
最後に、形式論理学を改めてまとめておきます。多謝。
同一律:AはAである。
矛盾律:AはBである。AはBでない。これらの二つの命題が成立することはできない。ともに成立しないこともできない。
排中律:矛盾の中間はない。