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今月の読んでよかった:「加害者はかわれるか?」(信田さよ子・著)

こんにちは。モラハラを手放すと決めて75日目の久保だいすけです。

GADHA主催の加害者変容プログラム・入門編を受講し始めて3週間が経とうとしています。その中で、新しい発見があったのは、様々な加害に対する経験談を読むことが好きだということでした。客観的に他人の行動、加害者・被害者共に、から自分の行動を見つめることができるところが読んでいて少なくありません。

その中でも、課題図書の一冊でもあった信田さよ子さんによる著書「加害者は変われるか?DVと虐待をみつめながら」は珍しく加害者を悪、被害者を善と白黒つけずに扱っている珍しい図書でした。

やっとしっくりきた、ぼくはアダルト・チルドレン

著書の中では、理論→事例を繰り返すことでとてもわかりやすく、特に加害の近くが芽生えている自分にとっては、理論と加害の実態を合わせて自覚することが容易に可能となる内容でした。

その一つ目が「アダルト・チルドレン(AC)」でした。

筆者はアダルト・チルドレンを

現在の自分の生きづらさが親との関係に起因すると認めた人」

信田さよ子、加害者は変われるか?: DVと虐待をみつめながら(ちくま文庫)、2015年(P100)

と定義しています。

元来アメリカでアルコール依存症治療にかかる人のもとで育った人(Adult children of alchoholics; 直訳:大人になったアルコール依存症に育てられた子供)を指す言葉らしいのですが、日本に言葉が持ち込まれた際にアルコール依存症からより講義に機能不全な家族という定義を与えたことで広く使われるようになったそうです。(P101)

つまり、まさに私が文を読みながら同じ思考を辿ったのだが、著者はこう記している。

外見はふつうの家族だが、目に見えない家族内の抑圧・軋轢を感じていた人たちは多かっただろう。そこにぴったりはまったのが機能不全という言葉だった。「そうか、自分の家族は機能不全だったのだ」と彼らは納得し、ACだと自覚したのだ。

信田さよ子、加害者は変われるか?: DVと虐待をみつめながら(ちくま文庫)、2015年(P101)

そして自分がアダルト・チルドレンであると自覚すると次に押し寄せてくるのが、親への憎しみや怒り、恨みといった感情でした。

どうしても忘れられない親の言葉は多々あります。ただ親に対して謝罪を求めたいのか、理解が欲しいのか、それとも得られなかった愛情という形で無条件に受け入れてもらいたい(もらいたかった)のかわかりません。

幸い親はまだ生きており、会って話そうと思えば話せるところに住んでいます。親に向かって投げつけることは簡単ですが、著者はそれに対して反対してます。

なぜなら、親は奇妙なほどACの人が覚えているような行動・言動を覚えていないからだそうです。著者曰く、「加害者は加害記憶を喪失する(P108)」するそうです。

確かに実際に自分が妻に対して行ってきた加害も、得てして妻ほどの記憶の解像度は高くないかもしれません。

むしろ下手をすれば加害者側の心理としては、
・そんな昔のことを今さら何を言っているの?
・いつまでそんな昔のことにこだわっているの?
と反撃とも、セカンドレイプとも言えるように再度傷つけられることもある気がします。

親は愛情からやった行為だと思っており、加害者としての自覚などないからだ。世間の常識もいわゆる美しい家族像も、すべてが親に与している。だから、親がかわるだろうという期待など捨てたほうがいい。私はそう思っている。

信田さよ子、加害者は変われるか?: DVと虐待をみつめながら(ちくま文庫)、2015年(P109)

これが悲しい現実であると同時に、自分の経験上も、確かに少なからず昔は辛かったとアピールした際に帰ってきた反応と似ていることから、合点のいくエピソードでした。

親子関係は一方的な権力に溢れている

ぼくもこれまでの振り返りの中で、妻との関係など、自分が加害者というケースは一旦置いておき、カウンセリングで自分の過去を振り返る中で「久保さん悪いわけじゃない」と言われ、初めて自己責任から解放される感覚を味わいました。そして母との確執において、自然と責任は親にあり、自分は被害者であり、母を加害者として認識し始めています。

ただ、〜し始めていると書いたのには理由があり、それはどこまでも母を加害者、育ててくれた母を加害者にしてしまうことへの罪悪感が抜けきらないからです。幼い頃から聞かされてきた、母の行動の背景にある親心や子供への愛情、さらには子供としての親への恩、みたいな親という立場に与えられている印籠が、親だけでなくぼく自身へも親は正しいことをしてきて、それに対して子供が異を唱えることはいけないという刷り込みがあります。

そうやって自分の感覚が、如何に恩知らずで、常識とかけ離れているか、また自分の感じ方の異常さを植え付けられてきたために、いざ自分が親・大人として行動をとるとなると、親と同じことをしてしまう原因なのではと感じました。

そういう意味では、そこを解放しなければ、ぼくは一生「あの時の親と同じ行動」を取り続けてしまう、そんな気がしています。

中立的立場はあるのだろうか?

その根元にある親・子の関係を表すと感じたのが、中立的立場は存在しない、という考え方でした。(P128−129)

著者がこれまでカウンセリングを行ってきた様々な事例を用いて紹介されており、中でも加害者・被害者どちらのカウンセリングを行った経験について書かれています。その立場から中立性を担保しようとされたそうなのですが、中立性を保つことは被害者の立場から離れてしまうことに気づかれたそうでした。

男女(夫婦)は対等な関係であるという考え方が両者の健全な関係とされる中で、経済力・体力・腕力など実は様々な状況下で非対称的な関係性が成り立っていることも実は明らかです。

最近も田町駅で出没した「ぶつかりおじさん」や満員電車の痴漢行為のように、強弱がある中で、実は関係が平等・対等(水平)でありながら、加害(被害)がある時点で関係を表すのは水平の線ではなく、傾斜した線となのだと著者は気付いたそうです。

水平の線であれば、中間点の立場をとっても、どちらにも平等に意を汲んでいるように見えます。ただ傾斜した線であれば、ちょうど中央の中立だと思う地点は、実は強い方の側に寄っていることがわかります。

この視点は自分が加害者としての立場で物事を見る際に、加害を指摘されても一向に自分の非を認めなかったり、相手にも原因はあると主張したりするのは、全くもって自分の加害を認めていないのと同じだという理解をすることに役立ちました。

そもそも関係は対等であるべきでも、妻とぼくの立場には強弱がある中で、弱い立場にいる妻からの悲痛の叫びをしっかり受け入れる義務がぼくにはあると改めて感じました。

加害者は変われるか?

これまで加害にまつわる著書は全てKindleで購入して読んできました。一方で、この書籍だけはKindle版がなく、実際の単行本で読みました。

でもそれがこの本で本当に良かったと思いました。それはこの本は、理論がわかりやすく、また現役で著名なカウンセラーが書かれている本につき、自分が何度も戻って読み返したくなる内容でした。

まだ触れられていない部分があるので、それは続編で触れたいと思います。ただ既に触れてきた内容だけでも、自分が毒親からの被害者としての視点で捉えながら、実は夫婦間の加害にも通じる部分があり妻への謝罪を心の中で繰り返しながら読んでいました。

まだまだぼくの変容の旅は続きますが、妻との関係も今一度自分はどうしたいかと考える岐路に立っている気がします。妻はとっくにそうでしょうが、ぼくとしてもどうしたいか、考えるタイミングなのかもしれません。

そんな時間を1年という形で与えてくれている妻に感謝しつつ、その時間を無駄にしないように過ごしていきたいと思います。妻ちゃん、ありがとう。



文中引用・出典

信田さよ子、加害者は変われるか?: DVと虐待をみつめながら(ちくま文庫)、2015年(P100-101、P108、P109、P128-129)

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