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何気ない妻の一言も、攻撃と感じる認知の歪み

こんばんは。モラハラを手放すと決めてから37日の久保だいすけです。

最近、多くの方のエピソードを聞くと、新しい発見がたくさんあって、その刺激を楽しんでいます。

今日もこちらの書籍から。

独りよがりなぼくの一方的な喜び

10名以上のDV・モラハラ加害の事例が掲載されており、全員それぞれの色があり、変容も難しいのだと思い知らされます。Kさんの体験談は、導入の段落から深く共感しました。

部屋に帰ると自分を迎えてくれる人がいる、その温かさに癒され幸せを感じていました。  一緒にドライブをする、一緒にごはんを食べる、一緒にテレビを見て笑う、一緒に夜景を見て感動する、一緒に海を見て癒される、冗談を言ってじゃれ合う、そんな時間をとても愛おしく思っていました。彼女のリクエストにはすべて応えたい、彼女が喜ぶ顔を見たい、いつもそう思っていました。 結婚してからもその思いは変わらずにありました。
でも、これらの思いが僕の独りよがりでしかないということに気づいていませんでした。

DV加害更生プログラム「たんとすまいる」参加当事者の会. DV・モラハラ加害者たちの体験談: 〜加害更生プログラムで自分と向き合う〜 (p.210). Kindle 版.

ぼくにとって、この最後の一文までほっこり温かい、まるでぼくが失ってしまった、あの頃の幸せな夫婦像でした。でも最後の一文で、頭を鈍器で殴られたような衝撃を感じました。

あれ、ぼくが勝手にそう思っていただけだったのかもしれない。

妻とはいつも一緒にいることが楽しかったです。時に自分一人で出かけることもありましたし、出張で一週間から十日ほど家を外す時もありました。でもぼくの気持ちはふと思い出すと、ここに妻と来たい、妻と一緒に楽しみたい、妻をここに連れてきて喜ばせたい、でした。

別に妻がそこを訪れることで楽しむか、喜ぶかは確認したことがありませんでした。でも、仕事で来たような良いところに妻を連れてくれば、それは喜んでくれると思っていました。

離れていてもメールをします。出張時には出張先に着いてホテルにチェックインした際に時差的に問題なければ、電話します。そして妻が電話に出れないと寂しく感じます。メールの返信がなかなかないと、嫌われたのではないか?まさか他に相手がいるのでは?と携帯の家族共有画面から現在地を確認したりします。

こんなぼくを妻はどう感じているのかなどと考えたことはありませんでした。

なぜかできない普通の会話

ぼくと妻は結婚が早く、最初しばらく子供がいなかった上、子供ができてからは海外生活だったこともあり、車で長距離を走って旅行やちょっとした遠出をすることが多かったです。Kさんのエピソードを読んで、こんなことだったのか!と気付かされたのが、渋滞にハマった時の体験談。

妻は運転が好きではなく、逆にぼくは運転が苦にならないので、いつも運転席に座るのはぼくです。ある時、渋滞にハマった際に、ハンドルを握るぼくを気遣って「渋滞しているね」と声をかけてくれました。

むしろある時というか、よくある妻からの声かけです。もちろん何の悪意もありません。それはいまならわかっています。

「混んできちゃったね。疲れたら休んでね」

妻からの優しい声かけです。でもそれを聞いたぼくは、渋滞で妻自身が疲れるとか、渋滞していることに対する文句だとか、休んでって言ってもどこでも休める訳ではないし運転も変われる訳ではないくせに、と極めて歪んだ漢字取り方をしてしまいます。

「行楽日和な週末だし、これぐらい仕方ないんじゃない」
「思っていたよりも出掛けるのが、遅くなったから仕方ないよ」

と、なぜか「連休だから渋滞に文句言ったって仕方ないだろ」「子供たちが遅いから出発が遅れたんだから仕方ないだろ」と、まるで妻にダメ出しされ、使えない夫扱いされているかのような防御体制に入ってしまっていました。

普通に、「そうだね、混んできちゃったね。」「すぐ解消するかな?」「ありがとう、疲れたら大きめのサービスエリアに停まって休憩しようか?」と何故返せないのでしょう?普通の会話が何故かできません。

そして少し微妙な空気が流れたり、妻も努力虚しく力尽きて反応をしなくなってくると、「〇〇楽しかったね」とか「〇〇できるかな」と自分が壊した空気を取り繕うかのように話しかけまくります。

でもその時にはすでにもう遅いのでしょうね。

そして最悪なことに、ぼくは自分の行動や言動に違和感を感じることなく、こんなに家族のため、妻のため、子供たちのために頑張っているのに、なんでそういう扱いなんだろう?と思い通りの反応を示してくれない周囲に対して不満やイラつきを覚えていました。

振り返るとわかるがその時には

振り返ってみると、なぜ普通の会話ができなかったのだろうと、わかります。でもその時にはどうしても攻撃と感じてしまうようです。

その原因は、先日の記事にも書きましたが、母との関係にあるようです。

何度謝ってもずっとネチネチ聞かされる。その聞かされる内容も、攻撃的で自分の言った言葉を被害妄想的に拡大解釈し、そう感じられる言動をとる方が悪いと。

でも次にそういう場面に遭遇した時に、ぼくは本当に普通の会話ができるのだろうか。それが怖くて仕方ありません。

だから一人では更生できない

この体験談シリーズの中に、「もう自分ひとりではどうすることもできない」「反省は一人でできるけれど、更生は一人でできない」という言葉が出てきました。

まさにその通りだなと。ぼくがいくら、自分の思考の歪みを認知し、その原因を突き止めて、反省から次はしないと決めたとて、実際には相手がいるものでわからないのが正直なところです。

だからこそ、その思考を共有し、忌憚のない意見を言ってもらえるパートナーや仲間の支えあってこその更生なのだと思いました。

ぼくの更生は、これも妻の理解・支援を受け、10月の平日から始まります。

一緒に暮らしているのは、子供達のためと言いながら、いまなお妻の大きな傘の下で守られているのだなとつくづく感じます。

妻ちゃん、今日もありがとう。

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