人に頼ることの難しさ|頼りたくない?頼ってはいけない?頼ることができない?
こんにちは。モラハラを手放すと決めて53日目の久保だいすけです。
少し前に、職場の同僚と飲みに行った居酒屋で、いろいろな偉人の名言が書かれた小さい札が取り皿にのっていました。ぼくの手元には武田信玄が言った(のかどうか本当はわかりませんが)言葉が。
これを見た隣に座っていた同僚が一言。
「だいすけさん、もっと信頼してくれていいですよ。」
すごく衝撃でした。
ぼくはそんなに人を信頼していないのか?
人に伝わるぐらい、人を信頼できていないのか?
実は両方とも答えは、「していない」「できていない」だと思っています。
人に頼ることができない
ぼくは自分でも人に頼ることができないと、悩みまではいきませんが、薄々と気づいていました。周りは全て敵、まではいかなくても、人は裏切るものと思っている節があります。なので、
こんなことぐらいで頼ったら迷惑かな?
できない奴って思われないかな。
どうお願いすればいいんだろう?
断られたらショックだな。
こんなに悩むならひとりでやった方が早いかな。
と思い、結局自分が無理をすれば丸く収まる、というどこがどう「丸く収まっている」のかわからない結果になりがちでした。
なぜ頼ることができないのか?
いろいろ読んで理解を深めていくと、頼れないという心理に影響を与えているのは、子供の頃の親子関係だと思います。
具体的には、本当に辛い時に、助けてもらえなかった経験があると、
「たすけてほしい」
「(どうせ誰も)たすけてくれない」
という2つの気持ちが綱引きし、真逆の2つの気持ちが働く状態が生じることで、体力も気力も消費していきます。
その負荷が積み重なり、限界が来たときには、爆発するエネルギーも巨大で、自分でもわからないぐらい大きな怒りとして放出されることも珍しくなく、それが加害行為になっているのだと推測しています。
また、他にも本当に辛かった時こそ頼れない経験があると、頼れなかった原因を、
「迷惑なのでは」
「嫌われているのでは」
「相手は離れていってしまっているのでは」
と自分への自信の喪失から自己肯定感が削られていき、不安や恐怖を感じるのだと思います。
子供の頃に親に頼れたかどうか。
子供のうちは、両親や家庭こそが世界の全てだったりします。もちろん次第に世界は家庭に加えて学校、友人、と広がっていきますが、それでも家庭は唯一無二の安心・安全な場所としての役割が大きいです。
そして重要なのは、たすけて欲しいときや頼りたかったときに、家庭で親に頼れたかどうかではないでしょうか。
様々な事情により、あまり頼れなかった場合、そもそも「頼る」ことの経験値が不足して、頼れないというより頼り方がわからないという状態なのではないでしょうか?
そもそも頼るってどういうことなのかわからなかったり、どれぐらい、どういうときに頼っていいのかわからない。またなんと言って頼れば良いのかわからない。
親に頼ってたすけてもらったという経験が少ないと、誰かが救いの手を差し伸べてくれたことに、よほどあからさまじゃないと気がつけなかったり。
必要な時に親に手助けしてもらった経験が少ないと、相手の好意に疑問がわくことも。相手の救いの手を過度な好意と勘違いしたり。それならまだしも、時には「なにかおかしい」や「これには何か裏があるのでは?」と警戒したり、お節介や干渉と拒絶したりしてしまうこともあります。そんな時には後に後悔することも。そんなことが自分の経験としてもあります。
子供のころから、否が応にも一人で孤独に頑張ってきたり、親や大人に気を遣ってきたり。まだ小さいのにしっかりしている、と言われている子供がその対象かなと。年齢のわりにしっかりしているのには理由があるし、そうせざるを得ないことがあるということを大人には気づいてもらいたいです。
親の力になりたい、親を助けたい。または親からお兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだからと求められてきたり、一人っ子で他に頼る人がいなかったり。親に頼りたいのに、親に頼られる(親に自分が頼れる存在であることを暗に求められる)人が抱えやすい傾向なのだと思いました。
「頼る」ことは悪いこと、という暗示
しっかりしなきゃ。甘えてはいけない。自分がしっかりしないと。
と一人で頑張ってきた人。
「あなたのためにしてあげた」「あなたのためそ思ってやってあげているのよ」「誰のおかげで生活できているのだ」「〇〇ならもう知らない」
と非難されたり、自分のせいにされたりと罪悪感を植え付けられてきたことで、親の加害が怖い。その加害から逃げたい、加害の被害を最小限に収めたい、と助けてもらうことに罪悪感や恩返しをしなくてはというプレッシャーを感じやすいため、助けてもらうことを警戒します。それには今までずっと裏があったから。
頼れないといけないの?
個人的には40年以上頼らず(頼れず)に生きてきたので、頼れないとダメということではないように思っています。でもそれはぼく自身の防御本能である気もしていて、実際には頼るメリットの方が頼らないメリットより大きいとも感じています。
ぼく自身も本当は頼りたいです。
息子が自分の母校に進学し、同じ学校・同じ空間で、彼は素敵な友人や先生という仲間に囲まれている姿を見て、頼ることや頼れる仲間がいることが羨ましく、息子のことをとても嬉しく思いました。
どうすれば頼れるようになるの?
環境のせいで頼れないのか、頼る相手がいないのか、それとも過去の影響で頼れなかったり、頼りたくないのか。これらを知ることで、いざ頼ってみる行動をとってみるにせよ、スタート地点が違うように感じます。
ぼくはとにかく頼ることで、相手に対して負い目を感じ、ダメな奴と思われて、結果捨てられる、と思っています。
それは母に、「あなたのためにやってあげたのだから」「あなたができないっていって泣きついてきたから」「〇〇なのだからもう知らない」と繰り返し言われて育ってきたからです。
なので、
「あなたのためにやってあげたのだから」
→頼ったら相手に対して負い目を感じてしまう
「あなたができないっていって泣きついてきたから」
→ダメな奴だと思われる
「〇〇なのだからもう知らない」
→頼ったから捨てられる
という思考回路が三重にもインストールされてしまっているからです。
特に3つ目は、母だけではなく、頼れないながらに拠り所になっていた友人に捨てられ、信頼できる部下に裏切られた経験がこれを完全に定着させています。
試しに頼ってみて、成功体験を重ねていくしかない?
今月下旬に、妻とぼくの仕事の予定が重なって試合、昨日妻から母に子供達の夕飯をお願いしたところでした。その会話は滞りなく終わったのですが、今朝になって母が過剰反応を起こし始め、緊急時は小学校のどこから入るの?どこに迎えにいくの?学童はどこ?急に具合が悪くなったら?車はどこに停めるの?そこじゃダメじゃない?と、過剰に心配と干渉を始めてメールが止みませんでした。いい加減に過保護から解放されたい!と思わずTwitterに投稿。
それでも一向に落ち着かない、どんどん心の余裕がなくなる自分を感じ取りました。このままでは加害的になってしまう!と恐怖さえ感じました。たすけて欲しい。
そして意を決して、妻に頼ってみることにしました。加害者・被害者の関係上、それが正しい好意だったかはわかりません。でも助けてもらいたい、助けてくれるのは妻だけ、と思って妻にもメッセージを送りました。
ちょうど眼科に行って診察が終わったと妻から連絡があったところだったので、今の心理状況と母がギャンギャン過保護に干渉・支配してきたことにより余裕がなくなり怖いことを共有しました。本当に被害者・妻からすると恐怖でしかないことをしたと思います。
でも幸い妻からすぐに返信がありました。これから薬局に行って帰るから、帰ったら交代でジムにでも行ってくれば?と提案が。この時点で、大きく胸のつっかえの半分は取れた気がしました。
思い切って自分のニーズをしっかりと言語化して伝えて(頼って)みたことに対して、寄り添ってもらえたことが嬉しくて、ありがたかった。一方で、それがこれまでずっとぼくから妻へできていなかったことに、とても申し訳なくも感じました。
妻がどれだけ今まで寄り添ってくれていたか。また、私からの加害に怯えながら寄り添い続けて、心が離れてしまっている今でも助けに応じてくれる偉大さに心の底から感謝しかありません。
その後、帰ってきた妻が快く送り出してくれ、ぼくはジムでNetflixでドラマを一話観ながらバイクを漕いで、汗をかいてきたことでスッキリ。もちろんまだ少し違和感は残っていますが、なんとか気をつけながら乗り越えられそうです。
本当に、妻には感謝しかありません。そして改めて、ぼくは自らの加害により、妻の優しさを奪ってしまっていたことに気づきました。
妻ちゃん、心のそこからありがとう。今まで本当に妻ちゃんの偉大さに甘えてきました。ごめんなさい。ありがとう。