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10/25(金):カウンセリングの振り返り

こんばんは。モラハラを手放すと決めて77日目の久保だいすけです。

先週の金曜日に、8月13日の加害以降で4回目となるカウンセリングを受けてきました。これまでの三回のカウンセリングでは、こんなことを話してきました。

  • 8/30:加害性の変容へ取り組みたいという目標と背景

  • 9/20:妻はそういう人ではないのに、攻撃性をどうしても感じてしまう

  • 10/4:自分の思考にはテンプレートがあり、その型に囚われており、相手を見ずに正解らしきカードを切っている

また傾向として、いずれのセッションも結論的には変容の思想につながる一方で、どこかカウンセリングじたいに何を求めるか、がわからなくなってきたことも確かでした。

そこで今回は新しい試みとして大きく3つのテーマを持ち込んで、自分が話すだけでなく、カウンセラーの先生に意見を聞いてみるスタイルをとりました。

事前に用意した3つのテーマ

これまでは前回までの流れやコンテンツをおさらいしてからカウンセリングに挑んでいながらも、どちらかというと自然体にその時感じていることをカウンセリングに向かう移動の中で考えて挑んできました。それを今回は明確に前日に書き出し、当日の移動で確認する。そんなアプローチで洗い出した今回のカウンセリングのテーマ・目的は3つ。

  1. カウンセリングをどのように進め、どこに着目していくのが良いと思うか、カウンセラーの意見を聞く

  2. 妻に、夢見ていた母を求め投影し、無条件で受け入れてくれる存在にしたてあげていた(そこからどのように脱却するか)

  3. 裏を返せば、加害者・母と被害者・ぼくという構図が確定したところで、どのように接点を持つべきか

1はまるっきり新しいテーマでありながら、2は昨日の記事と関係する内容でもあります。実際に、では次にどうするべきか。が3という流れです。

カウンセリングの続け方

心の中では、GADHAが提供するコミュニティとしての役割としての、知識を持った仲間と苦しみも喜びも分かち合える仲間の大切さがずっと引っかかっていた。

得てしてカウンセリングでは、ぼく自身が気持ちを苦しみながらも言語化し話すことで思考の整理が進み、その整理がどの方向に進んだとしても、それを讃える傾向が出てきます。ただ、これでは自分の加害の正当化が場合によっては進むことで、変容の妨げになってしまいます。

つまりカウンセリングが、本来の効果とは逆に進んでしまう危険性を秘めているのです。そこで、ぼくは思い切って、カウンセラーにも聞いて見たところ、とても丁寧にまとめてくださりました。

記憶している内容を要約すると、

  • 妻との関わりに着目しがちだが、母との確執により、対人コミュニケーションのパターンや人との関わり方全般が影響を受けている。

  • 未来志向で家族との関係性をより良いものにするために、また自分自身が生きやすく、人と関わりやすいコミュニケーションが取れるようにどうすれば良いかを話していく。

  • 具体的には、母のコミュニケーションの取り方や考え方をヒントに、こうすれば良い、ああすれば良いかも知れないというのを一緒に探してみる。

でした。これにはとても納得感があり、ぼく自身の変容だなんだというよりも、母との関わりや、母の関わり方を言語化していくことで今の自分の行動を見つめ、改善ポイントを見つけるという流れだと理解しています。

何よりも自己理解を深め、より健全な人間関係を築けるようにサポートすることを目的にカウンセリングを受け続けることが、加害のシステムからケアのシステムへの移行のきっかけとなる言動のヒントをくれるということかな、と思っています。

次回以降もカウンセリングを定期的に受けることにしました。

無条件で受け入れてくれる存在を求める

今回のカウンセリングでも、先日読んだ信田さよ子先生の本からの最大の発見だった、「自分が得られなかった無条件で受け入れてくれる存在を妻に求めている」ことを話しました。

育ってきた中で、母から受けた過去の言動や行動を振り返り、それを加害と認識するところまでは至りました。

ただし、今でも「母なりの期待や落胆があった」と思っている部分も少しあり、理不尽を感じながらも母には母の正義があったのではないかと推察しています。

それが故になのか、それとも残っている写真からそう思っているのか、それとも自分が受けていた加害とは別のところで受け取っていた教育や機会をもって、自分が愛されていなかったとは思えずにいるのもまた事実です。

もしかすると求めているような無条件の愛情ではなく、往々にしてそれは条件付きの愛情だと感じていたのかも知れません。また当時はそこまでの知識が広がっておらず、他人の悪口や年齢に応じた接し方みたいな部分がなかったからなのかも知れませんが、そういった無意識の加害により傷を負っていたのかも知れません。

妻にはもちろん、パートナーやもっと広く女性に対して「無条件に受け入れてくれる存在」を求めてしまう心理が形成された可能性があると思います。同時に、その思いが強すぎるが故に、それが叶わなくなる・失ってしまう不安や恐怖から、支配的な行動をとってしまっていることが加害の大きな原因でもあると認識するに至りました。

女性をステレオタイプ化して見てしまう傾向があり、それが対等な人間関係を築く上での障害になっている可能性があると感じています。一方で、妻や娘を持つものとして、女性に対する偏見や差別が社会的に根強く存在することの問題も感じ、せめて妻と娘はぼくができる範囲で解放してあげたいという気持ちもありながら、自分もそこに加担してしまっている罪悪感もあります。

母の病の発覚と複雑な思い

そんな中で、先週から今週にかけて母が胃がんの診断を受けました。まだとても小さいものだけれども、転移性のあるものなので切除することが勧められているそうです。どの程度の深刻さかもわからない状況ながら、どこか自分の中で複雑に思いが交錯している感覚があります。

加害者・母と被害者・ぼくという構図が自分の中でもしっくりき始めており、また先日も圧を感じるコミュニケーションを受けたばかりだったことから、どこか解放感への期待と罪悪感という相反する感情に苦しんでいます。

過去の苦しみを理解してほしいとはもう思っていません。そんな若いには意味がなく、過去は取り戻せないことも重々理解しています。それよりも今のこれからの自分の家族との関係を重視したいと思っています。その目標・理想に向けての解放感に少し期待している自分がいそうです。

同時にぼくは母親に育ててもらった恩義を感じ、子供として親の不幸を想像することは人でなしとも思ったりします。ただ、万が一介護が必要になった場合、ぼくにはそれができる自信が全くありません。母に対してそこまで愛情を持って接することができる、と思えないのです。

情動調律=認識的共感の大切さ

今回のカウンセリングの中で、上記のことを話した時に言われた言葉が、先日の加害者変容プログラム・入門編のレクチャーでも出てきた内容そのものでした。

「出てきた感情に良い悪いと判断するのではなく、まずはそのまま受け止める」

感情を否定したり抑圧するしたりするのではなく、認識し、受け入れることで、感情に振り回されずに済むようになります。これは感覚と信念をわかろうとし、それを受容する認識的共感そのものであり、これが相手(自分以外)に求められているのではなく、まさに加害者に足りないとされている自分自身に対して求められているのだと気付かされました。

感じ方を否定することは、すなわち判断(judge)することで、それは「加害」になり得ます。まずは受け止める。それだけで良い。

人は自分の解釈や感覚をわかろうとしてもらえ受容された時に、存在を認めてもらえた実感が湧いて安心感を得ます。そのためには、自分がどう感じていようと、それを判断することなく「あなたはそう思っているんだね」と受け入れてあげることが、まず第一歩なのだなと思いました。

「あなたはそう思っているんだね」

実はこの言葉、先日の加害者変容プログラム・入門編の第二回目のセッションでも出てきた言葉でした。

ぼくは妻から使われたことがありましたし、他の参加者も同様でした。そして全員が、これを深読みして「あなたはそう思う」という受容の言葉ではなく、「あなたはそう思うが、私はそう思わない」という否定の言葉として受け取ってしまっていました。

少なくともぼくは、妻がそういう攻撃をする人ではないと知っています。それが常に覚えていられる感覚にはまだなっていないかも知れないですが、妻はそういう人ではありません(あったとしてもぼくがそうさせただけです)。

なので、妻には謝ると同時に、それでもぼくの気持ちをわかってくれて、わかってくれようとし続けてくれて、ありがとうと伝えたいです。

妻ちゃん、また大切なことを教えてくれてありがとう。

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