20230819 子供2人を案内、懐かしのニュータウン。もんじゃ食べた
naisanpoさん、画像をお借りします。マンション1棟で、私は「ニュータウンという雰囲気」が伝わってきたように感じました。
今日は彼女の親戚の子供2人に、わが母校を案内した。
その子供2人にとって、叔父にあたる人物が「将来のために大学見てこい」的にツアーを組んだらしく、本人たちにとって大学は興味のある場所であるかどうかわからない。
そんなこんなで、炎天下の案内が終わり(夏休みなので大学も人が多くはない)自分は子供2人と彼女と別れ、1人懐かしい大学周辺のまちをぶらついた。
初めに、住んでいた学生マンションを外から眺めた。
次に、その隣の公園のベンチに横になり、本を読んだ。
最近、この本を読み進めるのに熱中していた。
主に「山を刻む」を読んでいた。不思議なことに、この短編集を読んでいるときに自分の環境と重なることが多い。
「月まで三キロ」を読んでいたのは、ちょうど(新月の日だったけど)夜空の見えるベランダ。「山を刻む」を読んでいたのは、ちょうど作中の主人公が登山とそこで目にする景色に魅了されたのと同じように、自分が登山に熱中し、その思い出ばかり散らばっている大学とその近くの街。大枚はたいてカメラを買った点も同じだ。
「エイリアンの食堂」に出てくる情景も、なんとなく既視感があるような感じがして没入する。
登場人物がそれぞれに魅力的。
次は、大学時代よく登山用品を物色したアウトドア用品店に寄った。
ここにはいい商品がたくさんある。見ているだけで山へ、沢へ行きたくなる。
そして何より、当時一緒に山に登った大学の同期が、アルバイトから入社していてまだそこで働いている。
タイムスリップしたかのような感覚に陥る。
その友人は接客中だったため、半年ぶり?くらいだが言葉を交わすことはなかった。いまだ変わらず、客の足に合う登山靴を提案しているようだった。
その店内で、自分は当時と変わらない格好で商品を見ている。「必要なものを買いに来ている」というより、「心ときめくギアを探している」という感じは、当時と同じだ。もっとも、当時より使えるお金は多いが。
しかし、よさげな商品はいくらでもあるものの、最近山から遠ざかっているためか、買って最高の体験を手にしているビジョンが浮かばない。ワクワクしない。これを老いたという。
大学時代は、いくらでもあるほしいギアに対し、使えるお金はわずか。
特にときめくものだけを買って、家で使いもしないのに眺めていた。
家で眺めて、山で使って、ギアはすべて苦楽を共にした相棒になった。
いつかお金に余裕ができたらあれがほしい、なんてものは無数にあった。
それが今や、買うお金はある。実際に買うこともあるが、使う機会は当時ほど多くない。ギアへのときめきは目減りしている。買ったのに使わないのが怖いのだ。
いつ、自分は情熱をなくしたのだろう。あれほど夢中だったことがいまでもできるはずなのに、なぜその気が起きないのか。
やはり、老いたというほかない。
老いた私は、帰りに、水草水槽に使う組織培養水草を買った。
もんじゃを食べて帰った。
老いていても、もんじゃはおいしい。大学時代なら、払えなくはないが手痛い出費だ。
定期的に回顧することで、自分が本当に価値を感じているものは何か、考え直していこう。
いまのところは、雄大な自然を全身で感じること、それに憧れることだと思われる。