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ヤングケアラーの視点から「Codaあいのうた」を観ると・・・。その2(ネタバレ大あり、注意)
待ちに待った秋のコンサート。ルビーは、マイルズと2人、緊張のステージに立つ。家族は、客席に。ルビーの登場をわくわくしながら待ちつつも、周囲の状況がまったくわからないので、退屈でもある。
ついつい手話で、
「今日の夕飯どうする?」
「なんでもいいけど。あ、スパゲティがいいな」
なんておしゃべりしてしまう。
「やめて! ルビーにわかっちゃうでしょ! 今舞台袖で、すごい緊張しているはず。それなのに夕飯の相談なんて! 傷ついちゃうじゃないか!」
あくまでルビーの味方をする私。この両親のこういうところ、本当に無神経だな、と怒りさえ感じてしまう。
一方マイルズの家庭は、どうかというと・・・。
一切映像としては描かれていないけど、彼のセリフから何事も管理された冷たい家庭だと言うことがわかる。だから、あけっぴろげで仲の良いルビーの家を羨ましく思っているのだと言う。どんな家庭なのか見てみたかった、と思うけれど、マイルズが時々見せるあきらめたような表情は、それだけでじゅうぶんな説明にもなっている。
実はマイルズがルビーの家に来た時に、父母は昼間から大きな声をあげて愛し合ってしまう。ルビーは、いたたまれない気持ちになり怒るけれど、それさえマイルズにとっては仲の良い家族の証明と映ったと、後日告白してくる。
ふと考える。
子供にとって、どちらが良い環境なのだろう、と。経済的にも恵まれているけれど、会話もない毎日。きっとマイルズの家は、こんなふう。もしかしたら、不満をぶつけることもできないかもしれない。
その閉塞感は、確かにきつい。だから、マイルズは感情を押し殺したような雰囲気があるし、心から笑っていない感じもする。マイルズにとっては、家は安らぎの場所では決してなかった、ということだ。 さて。
コンサートは大好評、あきらめていたバークリィの受験も、水面下で先生が受験できるよう整えてくれていたので急遽参加できることになる。そして、合格。
皮肉にも、マイルズは不合格になってしまうのだけど、笑顔で、
「おめでとう」
と言うところが、この少年は人の幸せをちゃんと祝えるから、この先もきっと大丈夫だな、と思った。
寮に入るため、家を去るルビー。寂しいけれど、希望に満ち、皆ルビーの明るい未来を応援しているのが伝わってくる。ここでは、もう両親も完全にルビーの自立を受け入れていることが、その表情で伝わってくる。
ちょっと変わってはいるけれど、この家族はちゃんと繋がってるな、良かったと思わせてくれる大切なシーンでもある。
途中までは、ルビーの味方は先生と兄だけだと思っていたけれど、やっぱり両親もルビーのことを考えていたわけで。本当に、良かった。
スクリーンを観ながら、私が実家を巣立った日のことを思い出していた。
弟がレンタカーを借りてくれ、荷物を運んでもらうことになっていた。すべて積み終わり、もう靴を履いて玄関にいると言うのに、母は、
「なんで一人暮らしなんかしなくちゃいけないの?」
とまだ文句を言っていたっけ。
ルビーの両親とは、真逆。一人暮らしをして、自分の目の届かない所へ行けば、何か危険なことがあるかもしれない、と思っているのだろう。それは、母自身が心配をして心を乱されたくないというのが一番大きな理由で、もう一つは潜在的に手元を離れれば支配できなくなると思っていたに違いない。
応援の一つもされない独立記念日。でも、もう遠い昔のこと。ルビーと比べて、
「私なんか・・・」
と妬む時期は、とうに過ぎた。
ルビーのことを心から応援する気持ちしかない。けれど、かつての私だったら、やっぱり嫉妬していただろうな、と振り返る。
そんな無限ループから、抜けだすことができて本当によかった。
ここで改めて言うけれど、私が他のエッセイでも書いている毒母他の話は、「ひどい少女時代自慢」が目的ではない。全然ない。そうではなくて、私みたいな人が一人でも減ってくれたら、という思いで、書いている。
普通の家庭を知らないと、辛い自分の家がスタンダードとなり、
「こんなことで悲しんじゃいけない」
とブレーキをかけてしまうことが良くあると思う。そしてその思いを誰にもぶつけることのできない人に向けて、私は叫ぶ。
「こんなこと、おかしいんだから、おかしいって思ってOK!」
と。
今日も虐待されて殺されてしまった幼い子のニュースを耳にする。
「子供はどんなお母さんでも、お母さんが大好き」
とよく言われているけれど、ちょっと待って。
殴ったり、罵ったりひどいことをする人を好きでいてしまうのは、その人しか知らないからでしょ。そうでないお母さんがこの世にはたくさんいて、そちらの方が普通だとしたら?
そのことを子供が自覚した時。
「ママのとこになんか、帰りたくない!」
と言う勇気が出るかもしれない。そうしたら、せっかく保護されていたのに、みすみす家に連れ戻されて、命を落とさなくても済むかもしれない。また、帰れば、虐待の疑いをかけられたことに腹を立て、余計にいたぶったり、
「あんたのせいで、児相に怒られちゃったじゃないの!!」
などと逆恨みされてしまうかもしれない。そんな地獄が待っているのに、帰りたい子供なんていない。母親しか頼る人がいない、と思ってしまっているだけだ。また周囲もそのように誘導するのかもしれない。
その洗脳を解くことから、母親神話を打ち砕くところから始めないと、悲劇はいつまでもいつまでも繰り返される。
「CODAあいのうた」とは少しずれてしまったけれど、大きな括りでは「家族愛」についての私の思い。根底では、繋がっていると思う。
私は、今日も書く。一人でも毒親の被害から解放されて、新しい人生を歩む人が増えますように、と祈りつつ。
この作品は、第94回アカデミー賞の「作品賞」、「助演男優賞(お父さん)」、「脚色賞」の3部門にノミネートされている。すでに他の賞も受賞しているので、3月28日(日本時間)の発表が楽しみ。
こんなに長い文章を最後まで読んでくださり、本当にどうもありがとう。今苦しんでいる人がいたら、少しでも明るい希望が訪れますように・・・。
そうして、またアップしたら他のエッセイもぜひ読んでほしい。