
着物を着れても教養があるわけではない
教養という旅路をその人の過去に見出すことができるならば、それは肯定できることだ。教養があることは決して悪いことではない。
しかし、それは持っていないことを否定することに繋げてはならない。なぜなら、教養とは人間の知識や経験の集積だけでなく、それらを個々の人生の文脈に接続し、活用する能力であるからだ。過去を通じて教養が形作られているとはいえ、それは未だ未知の未来を否定する根拠にはならない。旅路によって違う「教養」を記号接地させながら、人は人生を通して教養を身につけていくのだから、人の現在を見て未来を否定することは元来不可能である。
この記号接地という過程こそが、知識を単なる断片として終わらせず、実際の状況や人生の問いに応答しうるものへと変える鍵である。それゆえ、教養とは未来を開く可能性を内包しており、他者の旅路に敬意を払うべきである。
記号接地していない「教養もどき」をたくさん仕入れても、それは人生を豊かにせず、人格を薫陶しない。それらは表層的な知識の断片に過ぎず、人生における真の問いや挑戦に応じる力を持たないからである。
一方で、記号接地した知識は、それが歴史、科学、芸術、あるいは日常の経験に基づくものであれ、またはアニメ、ゲーム、料理にいたるまで、具体的な状況に結びつき、思索を深める源となる。それこそが教養の本質である。記号接地した、連綿とした知識と知見を有しているならば、それはいかなる分野の、いかなる性質の知識であれ教養たりえる。
これらの知識は、個人の価値観や判断力を鍛え、人生の深みを形作る一助となる。それゆえに、教養は人間のあらゆる営みにおいて普遍的な価値を持ち、教養になりうる知識と経験の範囲は限定されないのだ。
ただ、教養があることが品位品格を醸成することはあれど、両者は区別して語られねばならない。教養があっても品位品格が育たないこともある。また、叩き込まれた伝統文化は、それだけでは人格を薫陶しない。それは決して教養にあらず、品位品格を偽装することができるだけの知識にすぎない。
たとえ筆で書いた字がうまくとも、たとえピアノが弾けようとも、たとえアートの歴史を語れようとも、たとえ着物の着付けができようとも、それだけでは教養たりえないのだ。