最近の気づき
コミュニティに属していないと不安
さて、最近の気づきです。
私は「バクティヨガ」を学び、そこからのご縁でたくさんの人と繋がれた。
ステキな人ばかりだし、
毎週のように!「こんなイベントやるから来てね」というお誘いをいただいたりして、
初めてかもしれない、「安心できる場」
コミュニティのなかにいることの嬉しさや安心感を味わった。
その中で。
インスタなどのSNSを見ていて、自分が参加できなかった集まりなんかで皆が盛り上がっている動画とか投稿をみると
胸がぐーっと苦しくなるような感覚があった。
あとたまに「え、なにそれ誘われてない…」「知らない…」みたいなのがあると、また落ち込んだり。
そして、自分が熱心にバクティの集まりに参加していることの動機が、
純粋に楽しいからという場合ももちろんあるのだけど、
そのなかに
「自分もこの輪の中にいないと、さみしくなる」
という恐れからはじまっていることがあると、気付いた。
自分が参加しないことで、参加している人だけがどんどん仲良くなってゆくのがさみしい。
行けなかった集まりをあとからSNSでみて、少しさみしくなるあの気持ちを味わいたくない。
私は今まで基本的に
大多数の人の中にいて安心感を感じたことがない。
むしろ、人が増えれば増えるほど
周りに気を使い
楽しくなくても楽しいふりをして
自分に嘘をつきながら過ごして
たくさんの人といるのにどんどんさみしくなる
という感覚がずっとあった。
だからそれを感じたくなくて、もっともっと周りに合わせていってた。
バクティの人たちと出会ったときもそう。
気を使い、周りをみて、なんだか自分を出し切れない自分を
遠巻きに冷静に自分が見ているような感覚で、
終わるとどっと疲れたりして。
でも、あるときから、
「あれ?私、たくさんの人の中でリラックスしていられる。」
「ただシンプルに、楽しい」
という感覚になってきた。
バクティのおかげなのか、
シンプルにハートを開いて
ただそのままでいる、ということができるようになってきた。
そうすると、その場にいる皆のこともより大好きになったり。
そしてそして!
その、「自分のままで、たくさんの人と関わる」ことが
できるようになってから
いろんな集まりに参加できなくても
気にならなくなってきた!
以前はわりと無理やりに参加していたこともあったのだけど。
そういうときはさみしさがベースだったんだね。
今は
自分が参加したいか、したくないか、を優先順位の一位にしてあげて
参加する割合はぐっと減ったのだけど
それでもさみしさは、ない。
考えられること。
バクティ以外にも大切なつながり、コミュニティが生まれたこともある。
たしか、複数のコミュニティをもつことが人には重要、みたいに聞いたことがあるけれど
本当にそうだと思う。
「私にはこのコミュニティが一番大切、それ以外にはない」となると、
やはりそのコミュニティのなかでの
人間関係やつながり具合に執着?しやすくなるのかもしれない。
そして、いろんなコミュニティに参加するときに
「私」という単体で参加しているということ、
私という単体を一番大切にして、参加しているということ。
今までは、そのコミュニティから外れないように、
仲間として受け入れられてもらえるように
自分を「変えていた」
優先順位がコミュニティが上だったのね。
でも今、バクティのおかげで
自分を大切にする
ハートを開いて正直な自分で人と関わることができるようになってから
どこにいても、誰といても
「私」を大切にできるようになった。
「私」を優先できるようになったら
面白いことに
他者も優先できるようになった。
色んな人がいる、
昔はそこにいろんなジャッジを無意識に下していたんだけど
今は他者に変わってほしいとも
ジャッジを下して
この人は私には合わないなーとか思うことも全然なくなった。
面白い体験。
自分という単体で
複数(コミュニティ)に関わるということ
それには
自分を大切にする
そして、自分の存在意義が
そのコミュニティにあるのではなく、
自分にあるのだっていうこと。
さみしさをうめるように
コミュニティに参加していたころ
私は「自立」していなかったね。
このコミュニティが私をしあわせにしてくれるのでは
さみしさから解放してくれるのでは
と
どこかで思っていたのかもしれない。
依存していたんだ。だから、苦しくなるときがあったのか。
今、コミュニティにたいしてそういう期待が全くない状態で
ただ「私」として
そこにいられるとうこと
バクティ以外のコミュニティもひとつひとつ大切にできていること。
より、大切な人たちとのつながりを、
ひとりひとりと深めていっているような気がする。
そして、
以前の自分
さみしさや所属感のなさに苦しんでいた、自分。
そんな自分がいたからこそ、
今、人と繋がりたい
寄り添いたい
と思える。
今の自立した自分だからこそ、
そうして繋がれるのかもしれない。
無駄な道はひとつもなく
一歩一歩階段を上がってきたからこそ、
今、みえること
感じられること。
かんぺきな道のりを用意してくれた
神さまに
ありがとう!