SNSとの付き合い方を再考する
先週末、思うところがあってこんなつぶやきをしました。頭に沸々と浮かんだことを書いたものですが、自分自身に向けられたものです。
しかし、なんでこんなことを書いたのか。
それは、Xを見ていてうっかり自分で自分を否定しそうなったのがきっかけでした。
思いなおし、自分の「今の考え」を言葉にしておくことで、無意味な自己否定から脱したのでした。
今回はSNSとどう付き合っていくか、考えてみたいと思います。
SNSから「正しさ」を捉えるのは難しい
Xには様々な個人的な意見が投稿されます。また、私見でなくニュースや事例、諸説ある学説、ビジネスノウハウも投稿されます。文字数の制限から、コンテンツ単体でそれらの背景を知ることはできません。
つまり、何らかの「意見」であったり、バイアスがあったりするわけですが、そこに面白さがあるといえます。利用している人はこのことに気づいていて、割り引いて読んでいるはずです。先ほどの私の投稿も然り。
しかし、コメントやいいね、インプレッションの数によって、ある一つの投稿が社会的に支持されたものに見えることもあります。『「みんなの意見」は案外正しい』という説もあるように、それはある一面では正しいのかもしれません。
実際、私はかつてSNSから災害の発生状況をリアルタイムに抽出できる技術を開発したことがあります。この発明のポイントは、災害発生時にはSNS上に出現する災害の目撃情報が発災地域に偏り、かつノイズの量を上回る現象を利用したものでした。
ただ、この仕組みでは、いいねやインプレッションなどの周囲の支持ではなく、純粋に「その災害を目撃した」という投稿の量と質に着目したものでした。それには間違いやノイズが含まれているかもしれませんが、数が集まれば確からしさが高まるという考えです。その仕組みのポイントは、①目撃情報の確からしさ(質)を機械学習で評価することと、②災害規模・時間帯・場所による投稿数の変動を吸収して量を評価することでした。
その一方で、タイムラインを追っているだけでは、あるトピックに対する「みんなの意見」をバイアスなく相対的に比較できることは難しいのも事実です。そこには数の比較という考えを持ち込むことが難しいからです。
仮にインプレッション数の多い意見Aがあったとして、それに対立する意見Bのインプレッションの総数を比較する、なんてことを日常的にやっている人はいないでしょう。やろうとしても、タイムラインからXに投稿された全投稿を漏れなく集計することは難しいはずです。
以上のことを客観的に理解すれば、XなどSNSを見ていて落ち込んだり怒ったりする必要はないとわかります。
感情的になってしまうのはなぜか
しかし、このような記事を淡々と書いている私でも、Xのタイムラインを読んでいて嫌な気持ちになったり、自分を否定されたと感じたりすることが稀にあります。
それは、自分の仕事観や人生観、あるいは専門領域で「こうだ」と考える無形の知識を真っ向から否定した投稿を目にしたときに起こります。
自分の投稿に明示的に向けられたものではないものであっても、自分の意見やノウハウを投稿した「少し後」に、するするっと否定的な意見が投稿されると感情が動いてしまいます。大抵は気を取り直すことできるのですが、そこに冷笑ムードが漂っているとなかなか冷静になれません。
* * *
SNSのタイムラインの「妙」は、物語性にあります。
投稿している人はそれぞれ自分勝手につぶやいているだけで、投稿した時点ではタイムラインに物語性はないはずです。
しかし、それらが時間という線で結ばれ、フォロー・フォロワーのつながりでトピックの同質性が緩やかに担保されたとき、あたかも大きな共通話題を皆でほわほわ話しているような感覚になります。広いグラウンドに人が集まって話しているような感じでしょうか。
そこにリポストやコメントのような機能が加わることで、一時的な小グループが形成されます。そのグループがいろいろと同時多発的に発生し、いつの間にかディベートのような様子になることもあります。
そして、その小グループの一つが自分の意見が否定した発言をしたとき、あたかも社会から否定されたように感じてしまうのでしょう。
仮に、その小グループがトレンドに入るほどの大きさになってしまうと、それは社会的に見えるかもしれませんが、バイアスのある一時的な集団であることには変わりありません。
私は小市民である故、そのような大きなムーブメントに巻き込まれることは皆無ですが、小グループに冷笑されたように感じることはたまにあります。
「そんな意見もあるよね」とさらっとスルーすればよいのでしょうけど、いつもうまくいくとは限りません。やはり人は人から否定されるのは堪えるのです。その多くは自分の勘違いであるのですが…。
タイムラインという仕掛けによって、バイアスある意見が社会の総意に見えてしまうというのがSNSの業であり、感情が揺さぶられる原因ではないかと考えています。
SNSとどう付き合うか
以上の構造を踏まえて、今後SNSとどう付き合っていくか改めて考えてみました。
「SNSはどこまでもSNSだ」と割り切る。
自分の居心地がよいSNSを活用する。
自分の軸を持っておく。
1. 「SNSはどこまでもSNSだ」と割り切る。
いろいろと問題はありますが、現代においてSNSへのアクセスをゼロにすることは難しい状況です。それは社会を理解する上でも、商売をする上でも同様です。
SNSは強力なコミュニケーション基盤であると同時に、バイアスがあり、時には炎上することもあると理解して、ほどほどの距離感をもって付き合っていきます。また、自分自身も冷静な投稿をしたい思います。
これは前々から分かっていたことではありますが、改めてそう思いました。
2. 自分の居心地がよいSNSを活用する。
SNSは多様化していて炎上しにくいサービスも登場しています。LinkedInはその代表例で、素性が分かっていることが前提のサービスなので、ほとんど炎上しません。否定的で他人に切り込むような投稿がないのも特徴です。仕事で使うのに適していて、私もかなり活用しています。
また、Blueskyのようにユーザー数がまだ少ない放牧的なサービスを利用するのも一つの手です。ビジネス利用には難しい面がありますが、空に向かって気軽につぶやきたいときに適しています。
その意味で、noteは構造的に炎上しにくいSNSともいえるでしょう。noteの居心地の良さ、緩やかさはかなり意識して作られているように感じます。
3. 自分の軸を持っておく。
自分の軸を持っておくことで、SNSに混在する多種多様な意見に流されないようにすることも大切だと感じました。それと同時に、人それぞれに「自分の軸」があり、必ずしも同じなわけではないことも心に留めておく必要があると改めて思いました。
「自分の軸」というと固い感じがしますが、自分の価値観や信念を大切にするということに他なりません。自分に素直になるといってもよいですね。その上で、それを他者に押し付けず朗々と過ごすことができれば、問題は起きにくいはずです。これは難しいことかもしれませんが、やってみる価値があるように感じます。
軸を作る方法は人によって様々だと思います。私の場合は、
一人の時間を作ってあれこれ考える。あるいは何も考えない。
仕事を通して工夫したことや教訓を積み上げる。
家族とたくさん会話をする。
たまに古典を読む。
という感じで、レンガを積むように時間をかけて作っているように思います。
それでも上手くいかないときは
こうして工夫しながらSNSと付き合っていくわけですが、それでも上手くいかないことがあります。そのようなときは、それこそ自分に素直になってSNSと距離を置くようにしています。
シンプルにいうと「見ない」わけですね。もっともシンプルな解決策かもしれません。時間が解決してくれることもたくさんありますので、なかなか有効です。
ということで、今回は個人的な投稿でした。
自分の軸をしっかり持たなければと改めて思いました。
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