生きることは、息をすること。|22年の「働く」を振り返る。
先日、大学の卒業制作展に行った。
自身の制作から、もう丸一年経ってしまったのかと、驚きを隠しきれなかった。
大きな窓の並ぶ教室の角に展示していたあの作品が、今でも残っているような気になったけれど、当然そこには違う作品が置かれていた。
同じ季節、同じ場所、でも、一年違う。
懐かしさを感じつつ、展示を見て回りながら、私は、この早すぎる一年間を振り返っていた。
22年の「働く」を振り返る
去年、2022年を一言で言えば「くたばっていた年」だろうか。
卒業したものの、なかなかアルバイト先が決まらず、困っていたところ、運良く引越し先から通える場所を紹介していただいた。
その飲食店で、働きはじめて数日、対人恐怖やら云々のストレスによって出勤不能に。
これが4月
の前半である
今考えても恐ろしいことだが、コロナ禍真っ只中でありながら、発熱状態で当たり前に厨房に立つ人、何が大丈夫なのか。
そして、触るとブルっと腕が震える、漏電しているミキサー。
「漏電しているからたまに痺れるよ」って、買い換えないの?
そして、出勤二日目からのレジ開け業務。から注文受け、盛り付け補助、もろもろ。何もわからないけれど、お客さんからしてみれば、店員がわからないとか、想定していないわけで、完全にパニック状態だった。
そこから回復を待ちつつ、6月頃からは次の就職先を探し始めた。
もう飲食店での臨機応変な対応は無理だ、表には立てない。と思い、裏方の仕事に応募する。
いくつめかの応募先で、食品関連の検品、梱包、出荷等を行う所から採用をいただき、社会保険付きのアルバイトになった。
これが7月
週4日、各8時間の勤務。フルタイムはキツいだろうからと、社保適用のギリギリを狙い、再び体調を崩さないように取り計らった。
今考えると、この日数でもちょっと無理をしていた。多くのフルタイムで働いている人たちは、どうしてこれに耐えられるのだろう、と疑問に思ったりする。
扱う商品が自身の趣味と関連したものであったため、最初の頃は緊張や不安こそあれ、なんとかやれていた。
しかし、9月を迎え、職場にも慣れてきた頃に、慣れてきたがゆえにわかってきたことがある。人間関係である。
パート間の力関係、職員との関係、過去のいざこざや軋轢、年齢、性別、職歴、出勤日、あらゆる項目によって、何曜日で〇〇が出勤するときは✕✕の話題。△△の場合には、☆☆を避ける。みたいな暗黙のルールのようなものが出来上がっていることが、見えるようになってきた。
苦しいのは、本人を前にすると、皆で持ち上げるのに、いないときには貶している。みたいな構図が多くの人に当てはまっていたことだ。
「一緒に働く仲間」だとある人は口にする。
その人のいない所では、その人に対しての悪口が飛び交う。
一緒に働くことと、仲間であることは、同じなのか。
2ヶ月しか見ていないけれど、その時点で、仲間だと思える人はいなかった。どちらかといえば恐怖の対象になりつつあったし、他者を貶し合うことで会話を構成している人々を、信頼することなんてできなかった。
日常のストレスを、職場での雑談で発散しているのだろう。
あれって、聴いている人たちもストレス解消になっているのだろうか。
私には、ストレスの吹き溜まりにしか見えなかったし、聞こえてきてストレスだった。
今こうして書いている事を読んだ人が、ストレスを感じたのなら、申し訳ないことをしたと思う。
そうして、10月
には再び休職することになった。
なんのために働いているのか、なぜ生きているのか。何を求めてお金を稼ぐのか。卒業制作で掲げていた問が、答えの出ないまま再び降ってくる。
今日を消費して、明日の生活を確保する。明日は、明後日の生活を確保するために一日を使う。
何しているんだろう。
そのまま年が明けた。
1月下旬、調子は落ち着き、そろそろ次の仕事を探さないといけなくなってきた。
生活を維持するためには、働いて稼ぐしかない。
社会の大きな流れ、仕組みの中で、時間を切り売りし、また売るための時間を作る。そうして労働力を維持するための資金を、調達しなければならない。
生きていくために、働くために働く。そうして生を削りつつ延命する。
こうした考え方をするから憂鬱になるのだと言われる。
そう思う、しかし、知ってしまった、思ってしまったことを、なかったコトにすることはできない。
家庭というものを、労働力再生産装置、と言い換えたりすることを、聞いて「なるほど、たしかに」と思ってしまった時点で、その考えを無視することは難しい。
変えるには、更新するしかない。
例えば、労働が意味する働き方のイメージを変えていく、社会の仕組みの見方を変える、過去の生き方と比較する、など。
まあ、現時点では改悪されていっている気がしないでもなく、深入りを避けている感もある。
逆に、どうしたらいいのか、教えて欲しい。
偏った視点なのか、穿った視点なのかわからないけれど、生きやすさに焦点を当てたとき、どのような色眼鏡をかければ、息がしやすくなるのかを。
どうせ働くのなら
楽な仕事が良い。
サボりたいとか、そういうことではなく、私にとって、余計な負担が少ないもの、ややこしくないものといった意味合いでの、楽。
常に小走りで声を上げ続けたり、多方面の機嫌や調子を伺い続けたり、そうしたことのない、小さな規模で、落ち着いた仕事。
予想外に、その仕事はすぐ見つかった。
落ち着いた職場をイメージしたときに、真っ先に浮かんだのはカフェ、喫茶店であったが、飲食店での経験から、乗り気にはなれず。
次に浮かんだのは古道具屋であった。
ネットで検索をかける。
自宅から通いやすい場所に、1件。ちょうど募集が始まったところの店舗があった。
応募し、面接することになり、2時間ほど話し(音楽の話とかした)じゃあよろしくお願いします。と言われて採用が決まった。
周囲には、手挽きのコーヒーミルと、北欧のカップ&ソーサーと、フィルムカメラの山。
この職場なら、落ち着けるかもしれない。
しかも職種は、カメラを使った商品の撮影など。
これは、きた。
そう思った、適職ではないかと。
ここでなら、息ができる。
そうして週3日程度のゆっくりとしたペースで働き始めた頃。
卒業制作の時期がやってきた。
もう一年経ってしまったのかと、思いつつ、仕事探しの一年だったのかもしれないと思いつつ、ストレスに翻弄された一年だったと思いつつ。
卒業してもなお、生きづらさと向き合うことを余儀なくされた、そんな一年間だった。
展示会をあとにして、久しぶりに会う人達がいて、皆、もがきつつも前進している所を見て、なんとなく励まされたような気になった。
「今でも、一緒になにかやりたいと思っているよ」
「考えたり、苦しんだりすることを、やめたくないよね」
そうした話を復路の新幹線で思い出しつつ、今年はもう少し前を向けるのではないかと、ぼんやりと、感じていた。
23/02/17
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