創薬のシルクロードー創薬スタートアップと「Translational Research」のプレイヤーは変わり続けることを知ろう
外部での講演前に考え方を整理するシリーズ。
今回は「オープンイノベーション」「Translational Research」
「事業化」できない構造に最初からなっている、日本の各種プログラム
いわゆる「事業化」というと日本で最近話題になっているのは「スタートアップ」で、「ユニコーンを作れ」とか「リスクマネーが足りない」とか言うことになっている。でも、ことヘルスケア、特に創薬となるとやることは実は決まっていて、それぞれのステージゲートでの成功確率を計算し、如何にリスクヘッジを行うか?というゲームになっている。でも、意外なほどに国内、特にスタートアップ関係のプログラム関係者はこのことを知らない。特に大学の起業プログラムの場合は半分以上がヘルスケア関連の新規事業であるのに、である。これは、
大学の産学連携の機能は大企業OBの第2の人生の場所として定着しているので、スタートアップ関連の事業に関する知識は持っていない。
ヘルスケアはグローバルビジネスだが、最大市場である米国に研究開発機能も偏在している。日本国内で「研究開発のプロ」と言っていても実は米国で開発した製品化のローカリゼーションを担当していたに過ぎないので、ヘルスケアビジネスの特に超初期を知っているプロは日本にいない。
という背景があるように思う。筆者を含め、業界の関係者では当たり前と思っていることが、あまりにも拡がらない。かなり声を大にして伝えようとしても、業界全体の知識としてこれまでのローカルビジネスの考え方から脱却できないのは、情報の上流と思われている企業経験者のなかに、起業経験がない、事業のゼロイチをやったことがある人がほぼいない、さらにはリスクのある新規事業を避けて出世してきた「研究開発のプロ」が大学に来るが、実は新規事業は高度な経営判断のもとで全社的に取り仕切るものであるので、ほとんどの大学にいる企業関係者は「Due Dilligenceのプロ」ではあっても、プロアクティブに開発リスクを想定し、各種試験を設計し、プロジェクトをリードたことがある人はいない(もしくは極めて少ない)。
ではお前はできるのか?と言われると、当然経験はない (`・ω・´)キリッ
なのでプロに頼るしか無い。
Translational Researchの産学比較
最近べったり頼り切っているChatGPTさんに聞いてみると、Translational Researchとは"Focuses on translating the findings from fundamental research into the development of trials, therapies, and tools that improve health outcomes." となっている。ごく当たり前に基礎研究の成果を実用化する、とある。ところが、これが一旦日本語の「橋渡し研究」ということになると、様子が変わってくる。企業内では探索研究部門と臨床開発部門が融合した合同チームが組成され、プロジェクトマネジメントチームのリードのもとで最終製品像が描かれてそれに合わせて開発計画、そして個々の作業目標が立てられる。完全にCost Centerで、自社R&Dの総力戦だ。
一方でこれがアカデミアの場合は少し異なる。Translational Researchは病院あるいは医学部のプログラムの一部なので(臨床開発が関与するのでそれ以外はありえない)、ある意味では企業治験を受託すると言うProfit Centerとしての役割もありつつ、Cost Centerとしてイノベーション創出も担うという、異なる組織の能力が必要とされる。
日本に限らず、米国でもアカデミアが単独で基礎研究から非臨床のデータを揃え、治験薬製剤をし、Phase IIまでをやり遂げることは極めて困難だ。筆者が関わりのあるStanford SPARKの場合はこの中では少し例外であり、製薬企業が手を出さない希少疾患の領域で、適応拡大やジェネリック医薬品のリパーパシングを目的として製品化までの支援体制を機能を有している。一般的な製品開発のほうをメインと考えると、日本国内でも同様に考える必要がある。
大学発スタートアップの治験の受け皿としての医師主導治験?
図2ではアカデミアでの医師主導治験(IIT)が、図1の企業治験に比べて費用が極めて小さいことと、従事する人員が少なくかつ多くの業務をこなす必要があることを表現した(ドルが小さく、人も小さく、でもやることはいっぱい)。日本の場合は治療技術の発明者に極めて近い医師が治験担当医となることが多く、発明者が治験についても強いリーダーシップを発揮する。利益相反の面では問題だが、日本国内では利害関係のない他大学が利益が少なく負担の大きな医師主導治験を受けてくれる可能性は極めて低く、逆に利益相反になるほどの経済的なメリットが創出された事ケースはほぼ無いと言っていいと考える。筆者はIRBの担当をしたことがないので実際の議論は分からないが、米国のような厳しいルールが日本で適応されたという話は聞かない。
問題は、IITでは論文を書くためのデータは出せるが米国でのPhase II以降を行い上市までを想定したしっかりした(Robustな)データは想定し得ないということだ。プロトコルライティングからデータの取扱システム、その他諸々の基盤への投資や人員確保、品質管理などに避ける費用はごく限られる。また大きな市場を狙うための二重盲目試験を組むほどの資金がないので、必然的に治療効果が限定される既存治療のない、あるいは薬剤不応の重篤な患者に対してオープンラベルで実施される計画を立てることとなる。エンドポイントは米国市場で保険会社が使用を許可するかどうかではなく、論文で有意差を示すことができるサロゲートマーカーということになる。
なぜアカデミアのTranslational Researchは貧弱なのか?
日本でも2000年代初頭からTranslational Researchについては仕組みづくりが行われてきた。米国と歴史的な背景は実はそれほど大きく差があるわけではない。しかし治験の環境の彼我の差はここ20年で更に拡がっているように感じる。多くの大学の発表や各省庁からの情報ではここはあまり指摘されず、なぜか「ベンチャーが少ない」という雑な議論だけで済まされているし、エコシステムというビッグワードにのみ頼りきった論旨展開となっている。本当にそうなのだろうか?
日本でアカデミアのTranslational Researchを強化する動きは、おそらく米国の研究開発の勢いに負けじと頑張ってきた日本政府の努力の痕跡と言える。しかし、戦略的に治験のHigh Volume Centerを構築した韓国の後塵を拝しているのが現状だ。2007年に自治医大/東大/国立がん研究センターの間野博行先生が遺伝子の転座によってALKキナーゼが暴走するというメカニズムを発見し、その後ファイザーがALKキナーゼ阻害剤を開発した。しかし、ファイザーのアジア初の治験は韓国で行われ、間野先生は国内で治療できない患者さんを韓国に送るしかなかった、と言うエピソードは語りぐさとなっている。そして最近ではPMDAの藤原康弘理事長が危機感を示しているように、意欲的な新製品を開発する欧米のスタートアップ(EBP: Emerging BioPhama)が多くの新薬の開発を担っており、EBPの開発戦略に日本が入っていない事が大きな問題として提示された(図1)。同報告では臨床研究の論文数についても課題が示されており、日本の研究者が責任著者となっている著名学術雑誌掲載の論文は全体の5%にすぎずしかも、その殆どが海外の製薬企業がスポンサーとなっている研究とのことだ。つまり、日本の臨床開発は外資系メーカーが若干サポートして国内医薬品市場を支えているが、国内メーカーのプレゼンスはじつは高くなくさらに、肝心な革新的新薬を生み出しているEBPからは無視されていると言う現状だということになる。
過去にはドラッグ・ラグの解消のために審査期間を早める努力をしてきたのだが、現在では①市場が小さすぎる、②治験が遅く未知のリスクも多いので算入する理由がない、という新たな課題に直面している。そしてそれが日本のアカデミアのTranslational Researchへと資金が流れてこない大きな理由の一つだと筆者は考えている。
解決策のまえに少し分析を
市場規模についてはかなり前から人口減少がわかっているのにもかかわらず、誰も手を付けていない。製薬企業は市場のあるところに進出する戦略なので、日本市場そのものの課題はほぼ無視。政府は人口減少という大きな課題の認識はあるものの、医薬品市場が縮小することの上述のような課題についてはPMDA理事長が警鐘を鳴らしているにも関わらず、直接的な施策は生み出していない。多くの場合「革新的な医薬品を生み出すためにシーズの充実を!」といって基礎研究者に研究費を配ったり、病院の治験人員拡充(多くの場合CRCの確保)が行われるのだが、抜本的な課題として「企業治験がそもそも少ないし、十分に旨味がない」という点の深掘りが十分でない。
筆者も病院の治験施設にいるので日々この課題に取り組んでいるが、国が提示してくれるデータは国内主要病院の比較であり、海外との比較や、日本特特殊性を考えた国際的な戦略の提示は皆無だ。というか、そもそも日々の運営で疲弊しており、大きく組織の課題に取り組むだけの余裕は殆どない。ちなみに医学研究者は私も含め海外への留学経験もあり、研究の面ではネットワークを持っている。しかし研究が生み出す商業的な価値や、社会とのつながりのシステムのところは、組織の構成員としてそれなりの立場にならなければ見えてこない。筆者の留学先のボスはTranslational ResearchのKOLと言える立場だが、彼女は医学部の基礎研究者であるので病院の課題については当事者ではないので、知識はあっても議論は難しい。また、私も含め日本人が大好きな米国西海岸は治験においては主要施設の一つとはなり得るものの、やはりMuti-center Studyを束ねるKOLを抱えているのは東海岸や中西部の有名私立病院や財団の医療機関だ。
リアル創薬開発と、日本のアカデミア発創薬システムのギャップ
米国の創薬エコシステム、特にTranslational Researchにおいて企業治験は非常に重要な要素であり、それはKOLを抱える一部の病院に集中している。しかしそれらは多くの場合、基礎研究で超有名な研究機関ではない。大事なので繰り返すと、上述の分析でわかったように(というか筆者が理解したのは)、基礎研究を担う研究機関と、治験を行う医療機関は別だということだ。にも関わらず、大学や日本のいわゆる橋渡し研究ではこれを「一気通貫」に「シームレス」で支援することがメリットであるかのように考えられている。おそらくだが、日本ではAMEDの特定部署がこの支援体制を担当しているので、グラントの出し手が同じところなので、受け手も同じだ、と言う概念が先にあり、それに対してステージゲートを課している。その中に実用化のための企業との連携があるという具合だ。しかし、過去10年のノーベル賞受賞と、日本企業が創出したブロックバスターを比較してみると、基礎研究から上市まで一貫して産学連携が成功した事例はIL-6→アクテムラくらいではないかと思う(このあたり、事業開発のプロの皆さんのご意見お待ちします)。
実際の製品開発というものはいろんなステージを行ったり来たりする。基礎技術から最後の市場での売られ方、使われ方を予想することはほぼ不可能であり、むしろ既存製品の課題からのアプローチ(薬の場合は副作用の低減やPKの改善、治験のやり直し)のほうが多い。臨床研究論文で各論文の背景についての質的な分析は行ったことがないが、米国の拠点病院のIRB情報を分析できればこう言ったリアルストーリーがもっと見えてくると期待できる。
基礎研究(探索)段階と臨床段階で組織が異なるということを言ったが、これは研究の主体も変わるということを意味する。アカデミアではなぜか特許を創出した基礎研究者がずっとそのプロジェクトの代表を努め続けるようになっているが、企業では基礎技術の発明者はあくまでも上流を担ったに過ぎず、下流の開発は企業の経営方針に合わせて別のグループが担当する。連携が重要だと言いつつも、企業でも探索研究と治験は別れている。
ちなみにAMED設立以来10年が経とうとしているが、多くの有識者が基礎と臨床の接続の悪さ(端的に言うと文科省と厚労省の連携の悪さ)を指摘してきたが、これも基礎研究側が「ずっと同じネタで研究費をもらい続けたい」と考えていることの裏返しの意見も含まれていたことも想像できる。しかし最も問題なのは、実用化までのステージの変化に合わせて、誰が何を担当し、どういう中間成果物がありえて、最終的に誰がどうやって市場に届けるのか?という「シナリオが不在だった」ということではないだろうか?つまり、今担当しているプレイヤーが誰でどこまでの責任を持ち、そして次のプレイヤーに手渡すなど、プレイヤーは変わり続けるという想定が十分でないまま、目の前に現れた課題に対処しているうちに現在の姿になった。そしてそれは実際の創薬のマネジメントシステムとはかけ離れているものだった、といえないだろうか。
企業のWishとアカデミアの想定の大きなギャップもう一つ
上述の図4についてだが、もう一つ大きなLesson to learnがある。企業側が見ている風景と、アカデミアの想定の大きな違いだ。以前筆者は用語の違いや概念の違いについてAMEDの調査研究を行ったが、図4からは意思決定レベルでの認識の大きな齟齬も見えてくる。アカデミアは虎の子のシーズを大切に育てるが(かける金は少なくともAMEDやPI当人たちはそう信じている)、企業側はあまたある創薬シーズの一つとしか思っていない。実際、企業OBからは大学発のシーズを見て「なんでこんなゴミ箱あさるみたいな仕事しないといけないのか?」と言うコメントが出てくる。つまり、企業側の認識としては、数多くから選択することでより良いシーズだけを選別するという発想で、シーズの育成については完全にパッシブ(受け身)の体制でいるという状況だ。
しかし、企業側の認識もじつは正確とは言えないと筆者は考えている。まず創薬シーズは掃いて捨てるほどは存在しないということだ。企業側はアカデミアのシーズを見る時に「選ぶ」というが、大学側は「育てている」ので、そもそもそんなに数を出せるとは思っていない。創薬シーズの評価方法の産学の違いの際によく「企業ではGo/NoGoの選別が厳しく、アカデミアはそれについていけていない」という図式の解説があるが、実際には企業の方も有望なパイプラインを潤沢に持っていると評価されている企業がどれだけあるだろうか?そしてそのパイプライン維持という作業が、企業の売上と同等もしくはより経営陣の頭を悩ましている株価に影響している事を忘れてはならない。となると、アカデミアが考える創薬のアイデアから企業のパイプライン(つまり臨床のPhase IIa実施れべる)まで持っていく仕組みづくりは、製薬企業はもっと関心を持って良いはずだ。この文脈で、ここ10年ほど米国で盛り上がってきているのがVenture Creationだ。
Venture Creation再び、三度
筆者は最近は何かにつけてVenture Creationについて触れているが、2023年のBioJapan関連でも米国の関係者から新たにVenture Creationを始めるので、有望な技術を紹介してほしいというリクエストを受けている。同時に、最近流行りのアクセラレーションプログラムは一応やるけれども、肝心な技術のソーシングについては口コミに頼るというのが現実的だという議論も出てきた。これには既に述べた有限である創薬シーズを、自分たちで最初から育てていくほうが早い、という認識が拡がって来た事情と、そこに十分なリスクマネーを投入する仕組みが整いつつあるといえると考えている。日本国内のVCが自分たちで手を出せず指を加えている段階から米国のVCたちは案件にアプローチし、下手に経験のないアントレプレナー(あるいは経験豊富だけれども投資の条件が厳しいシリアルアントレプレナー)が入ってくる前から事業創出をスタートする。そして一旦大学との関係を切り離してから、世界で一番早く治験ができる疾患、病院で治験を実施する。つまり、図4の下の図のように単純明快なビジネスを実現する。
戦略物資としての医薬品・ワクチンを考える
非常に長文になったので、少しだけ経済安全保障の話に触れてこの項を終える。COVID-19で明らかになったように、創薬、ワクチン開発を達成したり、製造の拠点を持つ国はそれだけで外交上優位に立つことができる。実際に米国はファイザーとモデルナのワクチン供給の優先順にを盾に有事の外交を展開したし、中国は効果が十分でなかったとはいえ南米などにワクチン供給をすることで地政学的な構図を変えようとした。こう言った中、日本のいわゆるエコシステムはすべて「経済合理性」の原則のもとで動いている建前になっており、さらに薬価制度を乱用することで国内外の製薬メーカーが日本で製品開発するモチベーションをことごとく挫いている。日本が数少ない創薬国であることは間違いない。世界に稀に見る疑似社会主義を実現しているのであれば、計画経済ではないとしても国民の利益に叶う、開発中間物の取引体制の整備と、それによる開発の加速を検討してみても良いのではないだろうか?
最後にー祇園祭?
創薬という長い旅路を歩むのは一人の冒険者ではない。シルクロードの隊商のように各拠点での取引や付加価値の目利きを経て、最終的にユーザーのもとに届けられ、そして使われ続ける。2023年夏、京都でもパンデミックで大幅に縮小していた祇園祭が完全復活して大々的に開催された。各鉾は多くの舶来の装飾品で彩られ、多くの人々の目を潤した。これらの装飾品には数百年前のペルシャ絨毯やヨーロッパのタペストリーが含まれている。運搬の上でのリスク管理、国際取引やそれを支える各国の金融システムなどの恩恵を受け、遠く京都の地で疫病の平癒を祈る祭祀でその美しさという価値を提供している。
日本は創薬のシルクロードの一部として、
今後もその力を発揮できるだろうか?