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1920年代を生きた女性達【日本編】

 先日投稿した1920年代を生きた女性達【海外編】に引き続き、今回は日本での1920年代の女性にフォーカスしてみたいと思う。

 当時の日本の女性と言えば、モダンガール(モガ)がまず思い浮かぶ。
モダンガールを簡単に説明すると、海外のカルチャーの影響を受けた女性達が当時の最先端な風俗や流行を体現していた開放的な存在と言える新しい女性像を言う。
以前記事にしたモダンガールに必要なものとはを見てもらうと、モダンガールとしての女性達の生き方を多少イメージしやすいかと思う。

 モダンガールと言う言葉がどこからきたのだろうか、いつから呼ばれていたのかと疑問になり調べてみると、『女性』(当時の雑誌)の1924年8月号で北澤秀一氏が、「モダンガールの出現は新しい時代の極めて著しい現象である。然もこれに関する各種の問題やトラブルは、今始まったばかりである。」と発せられたことが初めてモダンガールと呼称されたと言われているようだ。
 因みに北澤秀一氏は夏目漱石と親交の深かった大正時代のジャーナリスト(朝日新聞勤務)だった。
そんな北澤秀一氏は夏目漱石の死後、ロンドンに渡り日本との文化の違いに驚きながらもロンドンでの滞在記を執筆し、そこで出会った(ロンドンの)女性達にモダンガールという姿を見たようだ。

 さて、日本のモダンガールのファッションスタイルと言えば、海外の文化が流入し和装から洋装に移り変わり膝下丈のスカートを好んで履いていた。
海外同様、日本でもクローシェ帽は流行り、ヘアスタイルはロングヘアではなく断髪(ショートカット)の時代へと移り変わり、今で言うボブやフィンガーウェーブのスタイルであった。
また、メイク(引眉・ルージュ、頬紅)や爪の手入れまでと細部まで隙を見せるこはなかった。
雑誌ではモダンガールのファッションが特集され、田舎に住む女性達の憧れとなった。

(Source:BUZZAP)

 続いてライフスタイルはと言うと、男性中心の世界から抜け出すかのように女性の新しいライフスタイルを模索し始めた。
今では当たり前である自由恋愛も当時は新しい恋愛のかたちとして捉えられていた。
自己を満足させるために1人の男性に限らず、次々と様々な男性との恋愛を渡り歩いていた。
そんな女性達の恋愛観から、貞操観念がないと議論の的となり、批判や非難が飛び交い(時には擁護されていた)、好奇な目で見られポジティブな存在ではなくなってしまったのかもしれない。
また、女性が就ける新しい職業にモダンガールは次々と挑んでいた。
事務員(タイピスト)やバスガイド、エレベーターガール等が当時の新たな職業としてモダンガールに人気があったようだ。
同時期の経済発展もあって新たな職種が増えたことで、職業婦人として男性の稼ぎに頼る受け身の立場ではなく独立した存在へと変化していった様子が見て取れる。

 因みに昭和に入っての歌だが、モダンガールは当時の銀座を歌ったものにも登場している。
銀ブラにもモダンガールは密接に関係していたと言えるだろう。

銀座モダンガール

私ゃ銀座の モダンガールよ 
並木の舗道に 日が暮れりゃ
ショートスカートに シングルボップ
青い眸で 恋さがす

銀座銀座と 通う奴ぁ馬鹿よ
向う横町が 酒場にホール
酒飲んで踊れば キッスもしたい
夜の郊外 ドライブしましょ

妾ゃ銀座の モダンボーイと
固い誓いは したけれど
銀座年増は もてなし上手
さすが私も気に懸かる

 

 今回は、特定の女性に焦点を絞るのではなく、モダンガールという存在そのものについて調べてみた。
モダンガールという言葉が台頭した頃、産業(経済)の発展や大衆文化が生まれ、新しい女性の動きが活発化した。
同時期に女性のための雑誌が続々と創刊されたのもこの頃だ。
男性の一歩後ろを行く女性の時代の終焉と言ってもいいだろう。
今日の当たり前の女性の生活(権利)を誰よりも早く歩んでいたモダンガールという存在は、かたちを変えて今も思想は生きているのだろう。

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