ひとでなしであるということについて②(自己紹介のようなもの、その3)
寄せ書き苦手だ。
一人あたり決められた大きさの枠が与えられ、そこに相手への感謝や激励の言葉を書くあの風習が、中高生の頃は苦痛で仕方なかった。
部活で誰かが県大会に出場する度、教育実習生が実習を終える度、私は心の底に泥が溜まっているような気分を味わわされた。
大して関わりもなかった実習生に感謝の念などある筈もなく、彼ないしは彼女が、将来教師になろうがデリヘル嬢になろうが私の関知するところではない。まあ、不幸になるよりゃ幸せになるに越したことはないかな、程度の感慨しかなかった。
ああいうのは本当にその先生にお世話になって、心から感謝してる連中だけが書いてろよ。ま、そんな奴いねえだろうがな。
実際、すらすらと枠を埋めたクラスメイトのメッセージを読んでみても、大抵はテンプレートの組み合わせだった。
本人は本気で書いたつもりなのかも知れないが、自覚がないだけで、人間にとって他人なんて所詮はイベントかアイテムに過ぎない。感情の薄っぺらさが文にも表れている。
そんな寄せ書きを貰って涙する実習生たちのことも、年上の癖になんて下らない人間なんだろう、と思いながら横目で眺めていた。
で、当の私はどんなメッセージを書いたのかと言うと、書かなかった。
自分のところでギリギリまで止めて、「悪い、遅くなった」とか言いながら、何も書かずに次の人に回す。すると、ちゃんと全員が書いているか確認する時間はなくなり、たとえ気づいても書かせる暇はない。不自然にスペースが空いたとしても委員長的な奴が埋めてくれる。
たかだか数週間しかいなかった実習生やスポーツで結果を出すようなクラスの中心人物が、教室の壁の染みみたいな私を認識している訳もないので、貰った側も「あれ?あいつ書いてないぞ?」とはならない。誰も不幸にならず、かける迷惑も最低限の、実に穏便な解決法だ。
テンプレを組み合わせるだけなら誰でもできる。私もやろうと思えばできただろう。しかし、肥大した自意識が、私にそれを書かせてはくれなかった。
思春期の私にとって、心にもないことを寄せ書きに書くことは、他の下らないクラスメイトのような俗物に堕ちることと同義だった。
俺に書いて欲しいなら、書きたくなるくらい俺を感動なり感謝なりさせてみろよ。そんな風に思っていた。
「いやいや、そんなこと言っても、いざ貰う側になったら嬉しいもんだよ」
そんな意見もあるだろう。
うるせえ、ならなかったよ。
部活の引退、大学のサークルで幹部をやったとき、そして、教育実習で母校を訪れたとき。一度たりとも感動しなかった。
教育実習では、生徒とそれなりに良好な関係を築いたと自負している。
高校生の乗りに合わせられる性分ではないので、授業の余り時間を利用したお勧めの本の紹介や、学級日誌のコメント欄で生徒とのコミュニケーションを図った。その甲斐あって、実習が終わる頃には、生徒の方から進んで話しかけて貰えるようになっていた。
それだけに、つらかった。
懐いてくれている生徒たちに、かつて私が生徒だった頃に散々目にしたような、テンプレ寄せ書きを渡されたときは。
そうか、君らもそっち側か。
急速に彼らへの興味を失って行く自分が悲しかった。自分の薄情さに呆れつつ、そんな自分の正しさを疑わなかった。
その寄せ書きは、たぶん実家のどこかにある。見返したことは一度もない。
結局私は教師にはならなかった。採用試験がズタボロだったというのも理由のひとつだが、それ以上に、自分は教師になるべきではないと思った。
その選択は間違いではなかったと、七割くらいの自信を持って言える。