「孤独死」とは結局、個人が選んだ「生き様」の結果である
”孤独死”という言葉がある。これは誰にも看取られることなく、当人の住居等で遺体として発見されることを指す。
ちなみに、孤独死とは別に”孤立死”という言葉もある。
前者はつながりのある家族が存在しないまま単独で亡くなった状態であり、後者はつながりのある家族が存在しているが、何かしらの理由で単身のまま死を迎えた状態である。
話がややこしくなるので、本記事では”孤独死”で統一することとする。
さて、孤独死は社会問題の1つである。
その理由は「孤独な状態で死んでしまったこと」よりも、「単独で死を迎えるに至った背景」に社会として問題があるという観点があるからだ。
孤独死の原因は主に「独居生活」「人間関係が希薄」「経済的な問題」の3点が挙げられる。
これはそれぞれ詳細に説明する必要はないので割愛するが、多くの人はこれらの原因を納得するだろう。
また、個人的な考えを述べさせていただくと、これらは孤独死に至るには自然な話ではないかと思う。
何だか突き放すような物言いであるが、孤独死という結果を招くような生き方を選んだ(選んできた)のは当人である。経済的な原因もまた、辛辣であるが当人の問題とした言いようがない。中には生活困窮をしていながら生活保護を受給しない人だっている。
もちろん、家庭環境や社会背景などによって、やむを得ずそのような状態になっているということだってあるだろう。心身における不調だって要因として挙げられる。
しかし、すべてが1つも解決できない問題ではないはずだ。周囲に助けを求めたり、経済状況によっては社会資源を活用することだって手段はある。
マウントをとるわけでも、行動することを強要するつもりもないが、何もせずに単独で過ごすならば、それは死に直結することは「仕方がない」としか言いようがない。
当人以外の要因を挙げるとしても、単身でも人間関係が希薄でも何とか生活できてしまう現代社会の仕組みだって、孤独心を助長する原因となる。
コンビニだってあるし、ディスカウントショップで安価で生活用品が揃ってしまえる。スマホで娯楽も情報収集も可能だ。
経済的な視点においては社会情勢といった外部要因となると、個人ではコントロールしようがない。
――― と、このように「孤独死の原因は社会に問題がある」と言う要素を探せばキリがないほど挙げられる。しかし、孤独死の要因を何でもかんでも社会のせいにすることのほうが問題ではないか?
スマホは誰でも持っているのだから、(特殊な事情を除いては)アプリで人間関係の希薄さだって解消できるだろうし、何かしらのビジネスを起こすことだってできる。
それを「独居生活」「人間関係が希薄」「経済的な問題」という理由で孤独死に対して憐みの目で問題視するのは早計ではないか?
そもそも、孤独死という言葉は、人間が社会という集団において生活しているからの発想だと思う。
自然界の動物であるならば、集団からはみ出たり、環境に適応できなくなったり、エサを確保できなければ、そのまま死んでしまう。
それに対して”孤独死”なんて言わないだろう。
意味は違えど、それは”自然死”という言葉がぴったりではないか?
――― 別に「孤独死は社会問題ではない」と言いたいわけではない。
もしも、孤独死を社会問題とするならば、孤独死を回避するべきこととするならば、まずは個人ができる範囲で頑張ってみることも必要ではないかという話である。
例えば、独居生活を回避したいならば結婚相手を探すのが1つであるし、そういった関係が煩わしいならばルームシェアだってあるだろう。経済的に余裕があれば、住み込みの家政婦さんやホームヘルプサービスを取り入れるのだって可能だろう。
人間関係の希薄さで言えば、今では様々なコミュニティが数多に存在する。そこに思いきって飛び込んでみればいいだろう。直接的な対人が嫌ならばオンラインサロンなども検討してみてはどうだろう。
もちろん、これらで孤独感が軽減されるわけではない。あくまでも物理的な意味での人間関係づくりはできるという話である。
経済的な問題においては、第一に働くことが分かりやすい手段であるし、まだ働いている方々ならば投資や起業をすることだって可能だ。失敗することを前提に色々とやってみることが、将来に向けた大きな投資である。
また、このような経済的な活動(仕事)をしていることで、副次的に人間関係の希薄さは解消される。それは、仕事とは少なくとも顧客と言う他人と関わらないと成立しないからだ。
――― 結局のところ、孤独死の回避には「行動」という手段しかない。
これは何事にも言える話であるが、黙ってて人が集まることはないし、黙っていてお金が確保できるわけでもない。
何もしないと、それこそ誰にも会わないまま骨と皮になってしまうのは自然としか言いようがない。それを「かわいそう」と言えるのかは分からない。
実際、地域や行政、支援機関などで孤独な高齢者を支援しようという動きはたくさんある。・・・しかし、その手を払いのけることも少なくない。
そうなると、どうしようもない。その人は孤独に生きて孤独に死ぬということを選んだわけだ。それは本人が望んだ1つの「生き様」であって、当人が望んだ「死のあり方」である。他人がどうこう言える話ではない。
もちろん、独居でご遺体で発見されたあとの処理などは大変という視点もあるが、本記事では話が逸れるのであえて深掘りはしない。
そもそも、”孤独死”とは生きている人間の視点である。死んでしまった当人はもう観測することは不可能である。
だからこそ、どのような「生き様」でありたいか、どのような死を迎えるかは本人が考えるべきことかもしれない。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。
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