見出し画像

「苦」と「楽」のバランス

「苦」と「楽」をどちらを選ぶか? と問われれば、正直なところ誰もが「楽」をとるだろう。

しかし、「楽」ばかりもしていないのが現実。仏教にも「一切皆苦」という言葉があるように、生きてれば「苦」ばかりに遭遇する。

じゃあ、「苦」と「楽」どちらを選ぶかなんて質問は無意味なように思われるだろうが、実のところ日常においては頻繁に選択を迫られている。

例えば、運動や勉強をしたほうが良いのは分かっていても、何となくスマホを眺めて時間を過ごしてしまうことはあるだろう。

それは前者が「苦」であり、後者が「楽」だからだ。

なぜ運動や勉強をしようとしないのかと言えば、それは運動や勉強が「苦」であると事前に分かっているからだ。時間や労力も費やすし、心身にストレスになることも分かっているから「苦」なのだ。

さらにスマホを眺めているほうが「楽」だからだ。ここでいう「楽」とは、享楽的な意味としての「楽」と、エネルギー消費もストレスもない活動としての「楽」である。

これらは誰もが分かっていることだ。 



しかし、もう1つの側面として誰もが分かっていることがある。それは「苦」を選んだほうが成長や充実感を得られることだ。

運動すると疲れるものの身体機能が向上するし、勉強も知識を得たときに成長を感じる。「苦」は心身に負担があるが、確実に得られるものがある。

これは苦難と言われる状況に応じたときも同様だ。特に何も分からない状況で手探りでも失敗しながらでも向き合うと、その苦難が終わったときに、知らず知らずのうちに知識や技術が身についている。

そのときは乗り切った感覚もなく、よく分からないうちに終わったとしても、数年経って振り返ると「あのときの経験が活きているな」と思うことは多くの人たちが感じたことがあるだろう。

それは「楽」を選んだ自分とは違う自分がそこにいるはずだ。それを知っている人は「楽」よりも「苦」を選択する。 


 
 私は「苦」と「楽」があれば、とりあえず「苦」を選択する。

それは問答無用で「苦」を突きつけられ続けてきて得てきたものがたくさんあると体感しているからだ。逆に「楽」をしてきた時期の自分は、現在の自分に何も残していないことも知っている。

これは何も精神論である。選ぶときは割とドライに考える。

目の前の状況に対して「苦」か「楽」かを突き付けられたとき、「苦を選べばプラスになる」と思えば「苦」を選ぶ。一方、「苦」を選んだとしても自分が得たいと思うほどでもなければ選ばない。

大袈裟な話のようだが、それくらいの判断だ。
それに、ときには「楽」も大切であると思っている。

そもそも人生には「楽」がなければ生きていくのはしんどい。1日の終わりの楽しみや1週間のうちに休日が必要だ。そうでなければ、自分が本腰入れて望みたいと思った「苦」に立ち向かうことができなくなる。

だからこそ、「苦」と「楽」が目の前に現れたときに、自分なりの尺度でいいから「ここでは苦を選ぶべきか? 楽を選ぶべきか?」を考えたほうがよいのだ。

それで判断がつかないときには、とりあえず「苦」を選べばいいと思う。実際のところ、物事はやってみないと分からないことが多い。「楽」だと思ったら、自分にとっては「苦」だったと思うこともあろう。そのときは成長できると割り切って最後までやり遂げるか、途中でやめたって構わない。

「苦」と「楽」の判断は人それぞれでいい。
「苦」と「楽」どちらを選ぶかも人それぞれでいい。

「苦」の数によって得られることも増えるが、「楽」を選ぶことによって心身の回復に努めることもできる。このバランスは自分で作るしかない。

それは「苦」と「楽」のどちらを選ぶかは、自分の人生を構築することと同義であるのだから。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?