感染症まん延から「変化への適応」を考える

運営している介護施設でコロナ陽性者が出ている。

職員も含めて感染規模は今のところは少数だが、利用者は認知症であることもあり、咳をしながら館内を闊歩する。

共用トイレで排泄もする。手すりや備品などあちこち触る。

咳をしているので最初はマスクを付けてもらっていたが、気がつくとマスクもどこかで外してしまう。逆に感染を広めることから付けないほうが良いのでは?と職員間で頭を意見が分かれる。

一方、感染はしていないが、同じく認知症の他の利用者の動向にも注意を払わなければいけない。居室にいるよう伝えても忘れてしまったり、そもそも意思疎通が困難なため、気がつくとその方らも館内を闊歩している。

そうこうしているうちに、感染している利用者とそうでない利用者が、施設職員が気付いたときにはマスクなしで邂逅する。感染している利用者は気にせずにコホコホと咳をしている。

他利用者の介助や電話応対をしているうちに、このような状況になっている場面を目撃すると「あちゃー」となる。

いや、むしろ最近では「そうか。こうして感染が広がるのか・・・」と悟りの境地のような感覚に至っている。



こういう場面を見たとして、介護者はカッとなってはいけない。いっそ「仕方ない」と思ったほうがいい。感染しなかったら儲けもの、くらいに思ったほうが良い。

次々と感染者が増えたり、間隔が空いて新しい感染者が出ることは精神的に磨耗するが、高齢者施設(特に認知症高齢者)の場合は「感染は広まる」という前提で考えたほうが良いかもしれない。

そもそも施設職員だって、今やあちこち外出したり旅行したりするだろう。親戚同士で密集した空間で飲み食いすることだってあるだろう。

と考えると、何も施設に住まう高齢者だけに感染のあれこれを押し付けるのは酷と言うものではないか?

いっそ、施設に住まう高齢者だけでなく、そこで働く施設職員も含めての「2ヶ月に1回くらいは感染者は出る」くらいに考えた方が、いちいち「感染者が出た!どうしよう!!」と慌てなくて済む。



そもそも、感染者が出たときに多くの施設で困るのは、感染した利用者への対応や自分が感染する以上に「人手不足に陥ること」ではないか。

なぜ困るのかと言うと、「平時どおりの業務スタイルを続けられるのか」「やったことのない業務も担当することになったらどうしよう」という不安があるからだ。正直、これは私自身もある。

・・・が、実際のところ「喉元過ぎれば熱さ忘れる」ではないが、終わってみれば何とかなっている。それは、ある段階で「平時どおり業務スタイル」を手放して、「これ以上感染症を広めないことを優先に、最小限の業務でいいか」という省エネモードになるからだ。

だからこそ、BCP(業務継続計画)といった体制を構築しておくことが求められるわけだが、この省エネモードに切り替えるには、日常から「変化に柔軟に適応する」という習慣が求められる。

しかし、多くの人たちは変化を嫌う。マンネリは嫌だと言う割に、できるだけ同じ繰り返しの日々を好む。

いつまでも「平時はこうやっているから、未曾有の事態でも同じようにしよう」と考えるのは、もはや現実逃避に他ならない。



そもそも、インフルエンザなどの感染症や食中毒といった脅威があるにも関わらず、コロナ感染となると「熱がある、検査しなければ!」となるのは何だか奇妙だと思う。

もちろん、ここ5年以内での世界中の悲劇や社会的打撃を鑑みれば、これまでにない脅威であるという認識になるのは仕方ないと思う。

しかし、いつまでも脅威に怯えているのも違う。対策しなくていいとか、甘く見てもいいという意味ではなく、「適切に怯える」という姿勢が大切ではないかと言いたいのだ。

恐怖や不安を抱くのは仕方ない。

大切なことは、恐怖や不安に対して「どうしよう、どうしよう」と言っている暇があれば、「今、自分たちでできることは何か?」と小さくても1つ1つ対策や対処をすることが、生物として「生き延びる」ということであり、それが「変化に柔軟に適応する」ということだと思う。

・・・と、コロナ感染から変化への捉え方を考えてみたがいかがだろうか?
とりあえず、自施設での感染がひと段落することを祈りつつ、記事を終えようと思う。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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