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説明責任って今や「言い逃れ」のためにあると思う

「説明責任」という言葉がある。アカウンタビリティという言葉もある。これは経営や会計に由来する言葉らしいが、意味合いだけならば現代においては色々な場面で求めれている。

ではここで「説明責任とは何か?」と問われたならば、何と答えるだろう?一般的には「利害関係者への説明」とか「企業が果たすべき責任」とかの意味が該当するようだ。

しかし、事業を営んでおり説明責任を果たす(求める)場面に多く立ち会うほどに、これらの意味は少し違うと思うようになっている。 



世の中では何をするにしても事前説明が行われる。ビジネスシーンでは特に契約書やら重要事項説明書といった細かい文字がズラズラと書かれた文書(テキストデータ)を用いて説明がなされる。

しかし、それは説明する相手(利害関係者)に対してちゃんと理解してもらい、納得感を抱かせることを目的にしているようには思えない。仮にちゃんと理解してもらおうとするならば、誰がしっかり読むのか分からないほど膨大な量の文書にしないはずだ。

では、なぜこのような膨大な量の文書を用いて説明がなされることが多いのだろうか? 

それは「説明責任」の本当の目的が、その言葉を建前にした「言い逃れ」のための証拠づくりに過ぎないからだと思う。

説明した側は何かしらのトラブルにならないように「ここまで量の文章を用意して説明したので、あなたにちゃんと伝えたことになりますよね」と文書を渡したり、その証拠を強固にするため署名までもらう。

それによって「あとで文句を言わないでね」と予防線を張っているわけだ。





これだと何だか説明する側(企業など)に対して、まるで詐欺師のようなイメージを持たれるかもしれない。

しかし、なぜこのような説明責任と言う名の「言い逃れ」としての証拠づくりをしようとすることにも、ちゃんと理由がある。

それこそ、ちゃんと説明しても文句を言ってくる輩がいるからだ。ちゃんと説明しても理解しない・分かったふりをする人たちが多いという事実があるからこそ、説明責任という言葉が生まれたのではないか?

実際、運営している介護施設の入所にあたり、料金説明やサービス説明を多量の文書にて提示・説明しているにも関わらず、あとになって「話と違う」「こんなに料金がかかるなんて聞いてない」と苦情を言う方はいる。

こうなると説明責任を果たしたのに、説明した相手にとって説明責任にならないという状況になる。「契約時に説明したうえで、お渡しした書面に書いておりように・・・」と言ったところで話は通じなくなる。

説明の仕方(伝え方)に問題があることはあると思う。しかし、その一方で内容をちゃんと理解しきれないまま物事を進行する側(説明を受ける側)にも問題がある・・・というのは乱暴な話だろうか? 



 

改めて「説明責任」というものを考えてみよう。

説明する側にとっては「言い逃れ」の材料である。一方、説明を受ける側としては「説明責任になっていない」と言うことができる。

冒頭でお伝えした説明責任という言葉の意味を考えると、「利害関係者への説明」とか「企業が果たすべき責任」というものではなく、お互いに無責任であるための説明になってしまっている。

ならばいっそ、事前に懇切丁寧な説明などせずに問題が起きたらその都度話し合いをして修正していったほうが建設的と言える。

・・・・もちろん、そんなうまくわけがないということは承知だ。事前の説明責任がなければ、例えば医療で手術などが行われたあとに死亡したといった事故が起きたら修正などできない。

となると、説明責任という言葉の意味の落としどころを考えると、説明をセする側としては「利害関係者に対して判断材料を与える行為」であり、説明を受ける側としては「自分に突き付けられた選択肢」と言えまいか。

・・・う~ん、こんなことを考えてしまうのは、私が説明をする立場にあるからに他ならないし、説明責任という言葉が広い意味で使われ過ぎていることへの混乱であるのかもしれない。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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