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AI生成は創作なのか?

AI生成物に対して批判的な意見がある。

予めお伝えしておくと、私はAI生成物について賛同も批判もない。
それは、AIはただのツールにすぎないという考えだからだ。

例えば、自動車を批判する人はほとんどいない。それは、自動車が移動するためのツールだからだ。

紙と鉛筆を批判する人もいない。それは、紙と鉛筆が、それらを用いて何かを書くことで、表現する、伝えるというツールでしかないからだ。

その観点からして、AIも同様であろう。


 
しかし、AI生成物となると批判的な意見が出てしまう。
それはおそらく「AI生成は創作か?」という視点があるからだと思う。

この問題を検証するには「そもそも、創作とは何か?」という議論になってしまう。極論すれば、「こういうものが作りたい」というのが創作だ。それはある意味での自己満足であり、自己完結な取り組みである。

一方、AI生成の批判についてよく出てくるワードとして「著作権」という問題がある。AI生成の議論について客観的に見ていて思うのは、「創作とは何か?」というエモーショナルな観点と「著作権」というリアリティな観点が混同していることだ。

そこから「AI生成物には感情がない」「人間が苦労して作り上げてきた技術をAIがカタチにするのは間違っている」みたいな歪んだ意見につながってしまっているように見える。


 
だが、この議論も妙な話だと思う。

確かにAIによって(多くの人がイメージする)創作が可能になるならば、プロのイラストレータやデザイナーなどの仕事は減少する未来がある。

しかし、そのような人たちだって、既にイラストやデザインをするためにソフトウェアやアプリを活用しているはずだ。その機能の多くは「これ、人ので手やるのは面倒くさいな」というニーズを満たすためにある。

それが最初から最後まで自動生成できるとなった途端に、それが可能となるAIを批判するのは何か違うと思う。それは、優秀な新人スタッフに対して「あいつが来たおかげで自分の仕事がなくなる」と危機感を抱くようなものだと思う。

仮に仕事が減ったとしても、時間と労力をかけて創作したいならば、それはそうすればいいだけの話である。実際、手作りでもニーズがあるクリエイタはたくさんいるし、時間をかけても「それ欲しい」という顧客もいる。
 


 
大切なことは「何のための創作か?」という原点である。
つまり、「こういうものを作りたい」という欲求である。

人の手でやるのが良い、AI生成が良くないという話ではないはずだ。

私はツールとしてチャットAIで調べ物もするが、本から情報収集するし、本棚にある辞書や図鑑だって活用する。何なら、人に聞いたほうが早いことだってある。

noteは基本的にPCで入力しているが、その原案は日々A4ノートに乱雑に書いているメモだったり、就業時間中にまとめている業務改善の構想だったりする。

また、noteは自分の思考を整理しながらアウトプットするツールであるが、もしも自分の言いたいことが明確である場合、AIが代行してくれるならばそれは活用するだろう。しかし、それが成し得ないのは私の頭の中が散らかっているからだに他ならない。

何を言いたいのかというと、手段やツールにばかり目を向けていないか?ということでもある。


 
「創作とは何か?」というと、それは「体験」かつ「投資」であると思う。その体験と投資によって生み出された作品は、共感されることもあれば、自己完結で満足できてしまうこともある。

ときには「AIで作ったものは作品なんて言えない」と批判されるかもしれないけれど、「へぇー、AIで作ったんだ凄いね」と言ってくれる人だって必ずいる。

反対に「手書きでやるよりもAIで十分じゃん」と馬鹿にする人もいるかもしれないけれど、「これ1つ1つ手でやったの? やっぱり人の手で作ったものは違うね」という感想をくれる人だっているだろう。

創作とは「作り手のためのあるのか?」「作品に触れた人たちに評価を委ねるものなのか?」という意見の違いもあろう。そこに答えはない。

そのような答えのない創作だからこそ、手法やツールにこだわらずに、もっと自由であっても良いものだと思うのだ。

AI生成に対して思うことがある人もいるだろうが、そのような暇があるならば自分の手を動かして、どんどん作品を生み出していったほうが健全ではないだろうか?


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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