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嫌われても、生きることはできる

「嫌われること」は、誰もが避けたいことであると考える。
しかし、誰もが確実に誰かから嫌われたことがある。

どんなに嫌われることを避けようと努力しても、嫌われることは避けることができない。

人間というのは個々に考え方や価値観が異なることから、誰かから嫌われなくても、別な誰かから嫌われてしまう。

「あちら立てば、こちら立たず」という言葉もあるが、それはある種のバランスである。陰と陽の関係のようなものだ。

だから、他人から「嫌われること」は確実に起こるのだ。
「嫌われること」は避けようのない事故のようなもの、と考えるしかない。 


 
実際、それまで普通に接していた人が急にそっけなくなることがある。その原因を探ってもわからないこともあるし、何かのきっかけで分かったとしても、「え? そんなことで?」と驚くこともある。このような現象もまた、多くの人たちが人間関係で苦しむ要因なのだろう。

そして人間関係で苦しむことで「生きていけない」と思い悩む人もいる。
「嫌われること」で「生きていけない」と思い込む人もいる。

しかし、いかがだろう? これを読んでいるということは、少なくとも生きているという事実がある。これまでの人生で色々な人たちから嫌われた経験があったけれど、それでも生きている自分がいるのだ。

つまり、人間は嫌われても生きることができるのだ。

このような話をすると、「クラスメイトから嫌われたから居場所がない」「職場の人たちから嫌われると仕事ができなくなる」みたいなことを言われるかもしれない。

しかし、居場所がないからといって生きられないわけでない。精神面では落ち込むかもしれないが、食べて・寝て・活動することはできる。ひとまず生物として生きるということは可能だ。
また、居場所がなくなっても、スマホで動画でも見て笑うことはできるし、別に授業に出なくても独学で勉強できる時代だ。

また、仕事だって職場の人たちが嫌っていたとしても、そこで事業目的を果たすために雇用されているわけだから、淡々と与えられた業務をこなすことができる。
もしも職場の上司や経営者から嫌われて、それを理由に仕事に支障が出ているとしたら、それはその役職ある立場の人たちが仕事を舐めていると思っていいと思う。 


 
「好かれたい」「認めてもらいたい」という、いわゆる承認欲求が人間には備わっているものの、それは生きるために必須の欲求ではない。欲求は他にもたくさん備わっている。

嫌われても、食欲があればご飯を美味しく食べることができる。
嫌われても、睡眠欲はその日を全力で過ごせばグッスリ寝ることができる。
嫌われても、性欲は湧くと性行為や自慰で満たすことができる。

私たちは、SNSも含めて他人を気にしすぎている。「好かれたい」よりも、「嫌われないこと」「嫌われたくない」を優先している。

一見すると「嫌われたくない」は「好かれたい」の対義語であるように見えるが、実際のところ「嫌われたくない」は欲求でも何でもなく、ただの予防線のようなものだ。それは欲求というより「自己愛」の部類である。

常に嫌われないようにする人生 ―― 果たしてそれで幸せになれるのか?


このように書いている私だって、別に率先して嫌われようなんて思っていない。人間なので多少なりとも好かれたい欲求はある(はずだ)。

しかし、特に仕事においては嫌われることも必要だと思っている。事業者として事業目的を達成するため、現場の統括者としてスタッフを教育するにあたり、マシンのように冷徹になる。

すると必ず嫌われることはある。「何で分かってくれないんですか!」「あんたには付き合いきれない」なんて言われることある。

一方、嫌われることもエネルギーとして前に進むことだってある。賛同してくれる人もいる。だから事業者として生きてることができていると思う。

嫌われたら The End ではない。
嫌われても人生は to be continued だ。

嫌われたと知って落ち込むことはあっても良いだろう。しかし、それがちゃんと前に進んで生きるための糧になることもあると知っておいてほしい。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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