
看取りにより「いつか自分は死ぬ」「時間の有限性」を再認識する
介護施設の入居者がお亡くなりになった。
以前より食事と水分量が徐々に減少し、むくみや痰絡みといったご本人の苦しみを軽減するため、数日前から食事の提供を停止していたところだった。看取りとなってから1年近く経過していたので、施設スタッフもやることはやったと感じているようだし、ご家族も悲しみとともに肩の荷が下りたような雰囲気が伺えた。
私はといえば、そんな感慨に浸ったいる暇はない。何だか冷たい印象を受けるかもしれないが、他利用者の介助など平時の業務はあるし、医療連携やご家族のフォローはあるし、何より空室が出たので新規入居者を早々に入れることを運営として動かなければいけない。
しかし、そんな中でも思うことは人間の「時間の有限性」である。
それは言いかえると「人はいつか必ず死ぬ」ということだ。
介護の仕事を通じて、高齢者の「死」に立ち会う場面は年に何回かある。
そのたびに「人はいつか必ず死ぬ」ということを思う。
一方で「自分が死ぬのはまだ先だろう」と思っている自分に気付く。そして自分がいかに日常で「時間の有限性」を意識していないことも気付く。
「死」をボンヤリ認識している自分は明日死ぬかもしれないし、何ならこの記事を投稿している最中に意識が途切れて死ぬかもしれない。
それなのにインターネットで無益な情報を眺めたり、他人の発言に一喜一憂したり、ちょっとしたことで自分の思った通りにいかないだけでイライラしたりする。
時間は有限であるということは誰でも知っている。しかし、それを人生という大枠で考えている人は少ないと思う。それは自分の人生がいつ終わるかなんて分からないからだ。
あらかじめ「あなたの人生は80年ですよ」とか「あなたは60歳過ぎると肉体や脳が一気に低下していきますよ」とか言われたら、そこから逆算して自分の人生を考えるかもしれない。
いや、あらかじめ人生の区切りを教えられても、やはり多くの人は「まだ先のことだろう」と考えては無駄なことに時間を費やしてしまうだろう。
しかし、それもまた人間らしいと言えば人間らしい。
実際、看取りでお亡くなりなった方だけでなく、介護サービスを提供してきた利用者(高齢者)の人生を本人やご家族から聞くと、多くの人が「時間の有限性」を意識した生き方をしていない。
だからと言ってそれは無駄なことではない。「時間の有限性」を意識したほうが良いだろうが、時間に追われたり、タスクを詰め込むように生きることではない。
過ぎた時間は戻れない。しかし、どうでもいいことに翻弄されながらも、その都度目の前のことに一生懸命に向き合ってきたならば、その時間は無駄ではないはずだ。
介護を行ってきた高齢者の方々の多くは、世間が認識しているような大きな偉業を成していない。しかし、「いつか自分は死ぬ」という事実を頭のどこかに抱きつつも、誰もが目の前のことに一生懸命に向き合ってきた。そしてその積み重ねが今の世界を創ってきたと思う。
それはおそらく私自身もそうなっていくのだと思う。つまり、「時間の有限性」「いつか自分は死ぬ」ということを介護や看取りを通じて抱きつつも、どうでもいいことに翻弄され、それを解決しながらも前に進み、世間で認識されることは1つもなく死んでいく・・・それが自然なのだろう。
何だかまとまりのない記事となって申し訳ない。
たまに「いつか自分は死ぬ」という事実や「時間の有限性」を意識することは定期的に必要だと思い、今回は看取りを通じて現在の考えを記事としてみた。読んだ方々の何かの一助になれば幸いである。
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。