あおり運転も高齢者虐待も、やっている当事者が「自覚なし」という厄介さ
「あおり運転は危険行為である」ということは、誰でも知っている。自動車を運転しない子供だって理解している話だ。
それでも、あおり運転がゼロになることはない。
事故がゼロになることはないのは分かる。
それは人的要因以外の複合的な事象も絡むからだ。
しかし、あおり運転はゼロにできるはずだ。
それは完全にドライバーによってコントロールできる話だからだ。
それでも、あおり運転がゼロになることはないのは、もはやドライバー自身の問題ということになってしまう。
何が問題かと言うと、あおり運転をしているドライバー自身が、あおり運転をしている自覚がないことである。
そのため、いくら「あおり運転は危険行為である」という啓蒙活動を行ったところで「自分はやっていないから関係ない」となってしまう。
それはまるで、浮気している人が、芸能人の浮気報道を見て「バカなことをしたなぁ」と笑っているようなものである。
当然だが、自覚がないからと言って、あおり運転が許されるわけではない。
それはあおり運転に限らず、「本人に自覚がないから」という理由で社会的および倫理的に悪いとされていることを容認しては、警察はお払い箱だ。
しかし、世の中を見渡すと、本人に悪いことをしている自覚がないケースをたくさん見つけることはできる。
例えば、道端でのゴミのポイ捨て、歩きタバコなどは見た目として分かりやすい。「ゴミはゴミ箱へ」「歩きタバコは危険」といった啓発は、少なくとも30年以上はされているがゼロになることはない。
これらも当人たちに悪いことをしている自覚はない。いや、正確には注意された時点で悪いことをしていると気づく。しかし、注意したところで「うっせーな」と反発されるか、口論や暴力沙汰になるのが関の山である。
何が言いたいのかと言えば、子供でも知っている社会的および倫理的に悪いことをやっている人たちは、それを現在進行形でやっている最中は自覚がないということである。
それはあおり運転をしている人たちも同様であり、あおり運転をしている間は「自分はあおり運転をしている」なんて考えていない。むしろ、その人にとってはあおり運転とは違う行為(運転)をしている認識と思われる。
あおり運転も含めた社会的および倫理的な話だとピンと来ないかもしれないが、ついつい感情的になってしまったことならば誰でもあると思う。
ちょっとした意見のすれ違いでカチンときて、言わなくてもいいことを相手に言ってしまって気まずくなったことはあるだろう。
これもまた、カチンときてからそれを言ってしまうまでの間に「今から目の前の相手に言わなくてもいいことを言おう」なんて自覚することはない。
そして相手に対して非難や罵倒を浴びせてから気まずくなるも、「いや、相手のほうが悪いから」とか正当性や言い分を自分の中で作り上げる。
それはまるで、あおり運転によって事故を誘発した(しかけた)ドライバーの態度と変わらない。もはや感情論の話になってしまう。
これは介護における「高齢者虐待」にも同様のことが言える。
高齢者虐待は誰でも悪いことだと分かっているのに、ゼロになることはない。これも虐待している当事者に自覚がないからだ。
もちろん、虐待をしている(してしまった)と自覚している人たちも少なからずいる。しかし、その人たちもまた、虐待に至る直前と虐待をしている最中には、残念ながら自覚がなくなってしまう。
ちなみに高齢者虐待の原因は、感情コントロールだけの話ではない。どちらかと言えば「介護に対する知識および技術不足」が要因となっていることは厚生労働省をはじめとする統計から明らかになっている。
そのため、自覚がなくなってしまう状態、つまり虐待に至る直前の手前にいかないための予防策を講じておくことが大切なのだ。
予防策といっても、それは介護している当事者が頑張ってスキルを身につけるだけの話ではない。介護サービスを活用したり、施設入所を視野に入れるといったことも1つのスキルであることを覚えておいていただきたい。
介護施設を運営している立場として、スタッフが高齢者虐待をしないようにすることは義務であり、そのために研修や啓蒙活動をしている。
しかし、スタッフの中には利用者に対して高圧的に接していたり、忙しさのあまり身体状態に合わない対応を無理やり行おうとする者がいる。
そのような光景を見た他スタッフ周囲は眉をしかめ、そして私のところに「〇〇さんのやり方は虐待ですよ!」と直訴してくることもよくある。
要は大ごとになる前に注意や指導をすべきという訴えであるわけだが、実際のところそのような直訴を受ける前から、私自身もそのスタッフの目に余る態度に対して注意している。
しかし、当人は「?」という感じである。むしろ、「自分は利用者のために感じよく接していると思っている」「職場が円滑に進むように効率的に仕事をしている」というスタンスである。
自覚がないどころか、一生懸命に仕事をしていると思っている相手に対して注意や指導をしても納得することはない。それは冒頭でお伝えした、あおり運転のドライバーに対して「あなたのやっていることは、あおり運転という危険なことですよ」と言うようなものだ。
――― そもそも、自身のあり方を振り返り、そして改めるということをする人は少ないと思う。
「自分は聖人だ!」「自分は正しい!」とまでは思ってなくても、周囲や社会から問題視される行動をしている可能性まで考えることはないだろう。
そのため、いざ自分が想像もしていなかった日常の振る舞いを指摘されたとき、「そうなんですね。今後気を付けます」とはなりにくい。そのくらい人間は変化することに対して鈍いのだ。
おそらくだが、あおり運転や高齢者虐待といった社会的および倫理的な問題に対して、注意して自覚を促すことも、罰則というトゲやバリケードを設けてもあまり効果がないと思う。牢屋につないでも「何で自分がこんな目に」と思うだけで反省には至らないだろう。
あえて効果的なのは、当事者がやっている振る舞いを動画撮影して本人に見せるということが1つだと思う。しかし、それは根本的な問題にはならないだろう。
個人的な意見としては、ある一定の年齢の方々に注意するよりも、これから社会で活躍していく子供や若い人たちに教育および啓蒙していくことで、より良い未来につないでいくことに注力したほうが良いと考えている。
これは目の前の現実から目を背けたような考えだが、そう思わずにはいられないが、いかがなものだろう?
ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。
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