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何気ない小さな行動こそ「好きなこと」「得意なこと」につながるかも

――― あなたの”好きなこと”は何か?

――― あなたの”得意なこと”は何か?

・・・このような問いかけをされて、すぐ回答できる人は少ないと思う。

昨今では「好きなことを仕事にする」みたいなフレーズがあるが、そこで自分の”得意なこと”を思い浮かべる人がいる。

それは仕事というワードに対して「自分ができること」「人よりも秀でいていること」を連想してしまうためと推察される。

しかし、”好きなこと” と ”得意なこと” は本質的に話が異なる。

”好きなこと” は、自分が没頭できるものであり、そこに実績やスキルなどは関係ない。他人から見て無価値なものに価値を見出し、自分が好きならば好きで問題ない。

”得意なこと”は、スキルがある状態である。とは言え、どのくらいのレベルをもって”得意なこと”とするかは定義はない。自分が得意だと思っていても他人はそうでもないと思うこともある。反対に、自分が何気なくやっていることが、他人から見れば「スゲー」となることもある。

また、”得意なこと”が”好きなこと”であれば良いだろうが、自他ともに”得意なこと”でも、それが大嫌いということもある。

例えば、キーボードのタイピングは早いけれど、文章作成といった作業は大嫌いという人がいる。走るのが誰よりも速いけれど、競技に参加するのは勘弁したいという人だっていると思う。

まるで能力の出し惜しみであり、そのスキルを欲している人からすれば贅沢な言い分かもしれないが、”好きなこと”をするのも、”得意なこと”を活かそうとするのも、結局は当人の生き方次第であって他人がどうこう言う話ではないだろう。



それでも、他人と比較しやすいツールや環境が揃っている昨今、多くの人たちは”好きなこと” や ”得意なこと”を何とか探そうとしている。

おそらく、それによって自分のアイデンティティを確立しようとしたり、他者からの承認欲求を満たそうとしているのだろう。あるいは、将来の生活の糧になるという期待を抱いているのかもしれない。

このような考え方を別に否定しているわけではない。むしろ、自己確立や他人の評価を得たり、自分のできることをマネタイズしたい気持ちは、社会という集団で生きる人間として普通のことである。

あえて言えば、人に胸を張って言える”好きなこと”や”得意なこと”がない自分は、駄目な存在あると思い込んでいるように見える。

特にSNSを眺めていれば、人生を謳歌したり秀でたスキルを仕事に活かしている人たちをたくさん知ることができるので、余計に何もない自分に対して焦りを感じてしまうのだろう。

そうして、別に興味もない流行ものに乗っかってみたり、他人から頼まれたことを嫌々ながらやることで承認されようとする人も見かける。
好きでも何でもないことに時間を費やすようになって、何にもない自分にさらに自己嫌悪するようになる。

そんな悪循環で苦しんでいる人たちもいるらしい。




そもそも、"好きなこと” や ”得意なこと” は、無理やり見つけるものではないく、気が付いたら付き合っている親友のようなものだと思う。

違う視点で言えば、「誰でもいいから恋人が欲しい」と言っても、おそらくそれなりに自分の好みや人柄で相手を選ぶと思う。いくら恋人が欲しいと言っても、好きでも何でもない人と行動を共にするほど酔狂ではないはずだ。

だからこそ、他人を見て「自分も好きなことを見つけなきゃ」「他人よりも秀でている得意なことをアピ―ルしなきゃ」なんて思う必要はないのだ。

それよりも、何となくでも興味があることを見つけたら、スマホで検索してみたり、100円ショップで手が出せるものなら買ってみるとかすればいい。

最初から「これで1番になるんだ!」「プロ並みになるぞ!」なんて考えなくていい。むしろ、合わなければやめてもいいくらいで始めたほうが良い。

周囲から見れば飽きっぽいように見えても、このような「興味ある」⇒「小さな一歩」を繰り返していると、気が付けば何か続けていることがある。

それがふとした瞬間、「ああ、これ好きだな」と思う。好きでなくても、続けていると周囲から「コレ、お前が一番うまいよな」となることもある。

最初から”好きなこと”や”得意なこと” とせず、何となくやっているうちに形づけられているのが、好きとか得意というものだと思う。




私事だが、少し前より運営している介護施設で家庭菜園を始めた。

雑草を抜いて土を耕し、苗を植えて少しずつ収穫物が出ている。そのため、施設入居者も植物の成長を楽しみ、出不精の方々も収穫となると嬉しそうに外に出るきっかけになっている。

このような取り組みに対して、施設職員から「利用者さんの喜ぶ顔が見れて、やった甲斐がありますね」などと言われるが、申し訳ないがそのような意図があって始めたわけではない。

「始めた」と言うものの、そもそも「家庭菜園を始めよう」なんて思ってもいなかった。最初は手つかずの畑を見て、単純に「雑草生えて見栄えが悪いな」と思って草むしりを始めただけだ。正直、見た目がキレイになったら何もしないつもりだった。

しかし、草むしりをして土が見えてきたあたりで、施設入居者の中から畑仕事が好きな人があちこち出てきた。そこで「じゃあ、土の入れ替えとか肥料とか混ぜるか」として、土について本や動画で勉強したり、入居者の方々から教えてもらいながら、本格的に開墾が始まった。

そしてクワやらシャベルやらで土が整備されていくと、入居者だけでなく施設職員から「トマトやきゅうりは鉄板ですね」「スイカは植えたことない」「サツマイモとか植えてみましょう」と提案が次々出た。

こうなると後には引きない。ここからは話を端折るが、あとは苗を買ってきて植え替えして、水やりや選定をしたり何やらで、現在は実が出たら利用者も職員も好き勝手に収穫している。イチゴは争奪戦だ。

――― 施設の家庭菜園の話に脱線したが、何を言いたいのかと言えば、最初は草むしりをしただけなのに、気が付くと施設全体を巻き込んだ家庭菜園になっていたということだ。何となくの小さな一歩が、何につながるかは分からないのだ。




なお、家庭菜園という取り組みによって、私自身の”好きなこと”に気づいた。それは野菜を育てるよりも、土を耕すという行為そのものだ。

クワで掘る、シャベルで掘る、畝(うね)を作る・・・何も考えずに没頭できる作業が楽しいと思っている自分を知ることができた。

一方、基本的な手入れはするものの、収穫そのものには興味が薄い。そのあたりは施設の皆さんが収穫を楽しんでいるようなので、お任せしている。

「とりあえず」という行為によって、自分の”好きなこと”や”得意なこと”は見つかるかもしれない。焦らず、無理せず、むしろ思いつきで動いてみてはいかがだろう。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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