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他人と比較して落ち込む前に、比較対象の母数と範囲を検証してほしい

メンタルを病む原因の1つに「他人と比較する」というものがある。

特にSNSにて気軽に(知る必要もない)他人の日常を垣間見れるようになったことから、「他人に比べて自分は・・・」と落胆したり自分に幻滅したりするのだろう。

そこで「他人と比較しないほうが良い」という発想になるわけだが、これについてもう少し深掘りして考えてみたい。

そもそも、誰もが自分という存在を外部に公表するとき、できるだけ良い姿を見せたいものである。SNSはその典型であり、不特定多数の人たちから高評価に基づいた共感を得たいから良い姿だけを見せる。

不幸自慢のようにネガティブな投稿をする人たちもいるが、結局のところ求めているところは共感である。辛辣だが、可哀そうな自分を演出することで注目を集めようとする意味では同様である。

いずれにせよ、このような他人のあり方をみて、そして自分と比較して一喜一憂するのだからメンタルに良いわけではないのは確かだ。
 


 
「他人と比較する」の問題は何かといえば、特定の”個人”に注目していることだ。SNSはその多くが”個人” 単位で投稿されている。それは芸能人や著名人なども同様である。

そのため、「他人と比較する」をしているものの、その範囲はかなり狭いと言える。おそらく特定の人物1,000人を対象として一定期間を設けて「他人と比較する」をしている人はいないだろう。もしそうだとしたら、それはもはや他人の比較を超えて統計調査のレベルだ。

何を言いたいのかと言えば、「他人に比べて自分は・・・」と落ち込む人たちが比較対象としている他人は、とてもとても狭い範囲を指しているのだ。

20代~30代の男女10,000人を対象とした生活を1年間観測して「他人と比べて自分は・・・」と言うならばまだ分かる。
しかし、実際のところ、不特定の男女100人を対象とした生活を時々観測して「他人と比べて自分は・・・」とネガティブになっているのだ。

比較対象の母数が少ないうえ、狭い範囲の他人に注目して比較し、その結果落ち込むのは馬鹿らしくないか?
 


 
これはまるで、子供が「〇〇くんはゲーム買ってもらった!」と、特定の友達を引き合いに出して親に駄々こねているようなものだ。 

子供がこのような駄々をこねたとき、親は何と言うだろう? 「〇〇くんが買ってもらったのだから、ウチも同じゲームを買わなきゃね」なんて言うはずはない。

おそらく「ヨソはヨソ、ウチはウチ!」と言って突っぱねるだろう。それは比較対象が"〇〇くん" という個人しかいないからだ。

もしも、子供が各家庭に足を運んで、他の友達も同じゲームを持っているとしたら考えるかもしれない。しかし、そうでない限りは「ヨソはヨソ、ウチはウチ」という防波堤はゆるぎない。

このような考え方ができるのに、特にSNSという不特定多数を相手に、さらにそこから狭い範囲の人たちと比較して「他人と比べて自分は・・・」と落ち込んでしまうから不思議だ。

もしかしたら、相手の顔が見えない分、狭い範囲の個人が広い範囲の複数人のように感じてしまうのかもしれない。 


 
他人の生活を気にするのは構わない。SNSを眺めるのも問題ない。
しかし、そこで「他人に比べて自分は・・・」と落ち込むのは早計だ。

他人と比較して落ち込む前に、比較対象の母数と範囲を見極めてほしい。可能であれば、年代別・性別・地域・仕事(学生)などをもって分類化していただきたい。

すると、「こんな年齢が離れた人と比較しても仕方ないか」「(差別でなく)男女で違いはあるしな」「地方と都市で差はあるよな」「仕事が違うと比較しようがないか」と気づくことができる。

そうしているうちに「他人と比較しないほうが良い」というか「他人と比較しても仕方がない」という境地に辿り着くと思う。

もちろん、他人を見て「自分もああなりたい」「こういう生活に憧れる」という努力や理想でワクワクするのは良いことだと思う。「ま、今の生活も悪くないしね」と思えることも良いことだ。

落ち込む前にすることはたくさんある。

極端なことを言えば「平和な国で、社会保障も充実して、仕事がたくさんあって、生きることができるだけで十分」なのだ。それに気づければ、他人の生き方よりも自分の生き方に目を向けられるだろう。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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