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「自分を疑うこと」も大切

”自信”とは何だろう?

文字通りでいけば「自分を信じること」であるが、どんな自分ならば信じられるのだろう?

もしかしたら、自分に対して確信があることを”自信”と言うのかもしれない。しかし、変化が激しい世の中において不変な確信なんてない。

仏教では「諸行無常」という言葉もあるように、不変および普遍な事象なんて存在せず常にブレブレに変化する。それが自然なことだ。

もしも「自信」というものが明確になっている人がいるならば、それはきっと変化する時代とともに、「自信」もまた常に変化しているに違いない。


 
「自信があるか?」と問われたならば、私は「自信なんてない」と答える。

人生は色々な事象やトラブルに出くわす。それに対して「自信があるからやる」「自信がないからやらない」と判断していられない。

自信の有無を考えている暇があったら、現状を把握して、課題分析して、「こうすれば何とかなるかも」と仮説を立てて行動したほうが良い。
(行動の中には「やらない」と判断することも含まれる)

そういう意味で、何かにつけて自信の有無を問われたときに「自信なんてない」と答えているにすぎない。


 
一方、自信はないが、常に「自分を疑うこと」はしている。

それは何だかネガティブ思考のようだが、そうではない。

「自分を疑うこと」は自分の間違いを正す姿勢である。
自分の中にある知識や思考、価値観をアップデートする機会である。

「自分を疑うこと」をしていると、自分が間違っていると気づいたり、他者から指摘されたときにすぐに受容できる。間違いを改善できる。

下手に自信があると、間違いと分かってても正当化したり、言い訳したりと改善の機会を損ねる。それは自他ともにみっともない姿だ。

間違いを素直に聞けるためには、定期的にでも「自分の知識は間違っていないか?」「この考えは時代に合っているのか?」「この価値観は手放したほうが良いのか?」といった自問自答をしたほうが良い。
 


 
「自分を疑うこと」の大切さを伝えると、自己否定のような印象を抱く人がいるが、そうではない。

「自分を疑うこと」をしても「自信がなくなる」わけではない。
確かにある意味では自己否定かもしれないが、どちらかと言えば「矯正」と考えたほうが良いかもしれない。

自分が「当たり前」「常識」と思っていることを疑うことで、”慣れ”や”惰性”でやっていることの意義を見直す機会になる。

仕事で言えば、新人のときに教えてもらった業務を3年後も続けているとして、その業務は現在において必要でないかもしれない。仮に必要だったとしても別な方法やツールを活用したほうが効率的かもしれない。

このような気づきを得るためには「自分を疑うこと」を、意図的にやらなければいけない。ときにそれは、今まで自分がやってきたことを否定することになるかもしれない。

しかし、「自分を疑うこと」で得られた気づきによって、そこから先の自分の未来が少しでも良くなる可能性を考えれば、決して無駄ではない。


  
「自分を疑うこと」は、自分の間違いに向き合うことであり、そして改善する機会である。そのサイクルを常にすることは、自分という存在を常にアップデートしていることである。

自分を常にアップデートされていること
――― それは”自信”と言えまいか?

つまり、「自分を疑うことは、自信につながる」ということである。

完成された自分なんていない。そんな自分は、きっとつまらないだろう。

常に不具合や不調を抱えたり、未経験のことやトラブルに向き合いつつ、「今の自分ができることは何だろう?」「自分のここが良くないから、改善してみたらうまくいくかも」という、自分をメンテナンスする観点と姿勢でいれば、失敗ばかりの人生でも悪くないと思えてこないだろうか?


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。


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