虐待行為を「確定」や「疑い」だけで判別する視点は、果たして適切と言えるのか?

高齢者虐待という社会問題がある。

虐待行為は「確定」している場合と「疑い」の場合に分かれる。

とは言え、虐待は「確定」しているケースは稀である。

極端なことを言えば、周囲に複数の第三者がいる前で、介護者が高齢者を殴ったり蹴飛ばしたりしたら、それは「確定」と言える。

しかし、ほとんどの場合は「アザがある」「本人が『やられた』と言った」という客観視点からスタートする。

つまり虐待とは「疑い」が多いのである。

また、虐待とはある種の「常習性」が前提となっている。

例えば、ずっと献身的に親の介護をしていた人が、あるとき感情のブレーキが止められずに手を上げてしまった。その1回きりで、以降はそのような行為に及んでいない・・・この場合は虐待なのか?

もちろん、分類としては虐待ではあるし何なら刑事事件とも言える。
しかし、その一度きりで虐待と言って良いのだろうか?

手を上げることが何かのたびに行われている実態が確認されると、それは虐待の「確定」と見なせる。
しかし、「実は先日、介護をしてる親に手を上げてしまったんです」と打ち明けてきた介護者の行為は、果たして虐待として「確定」と言えるのか?

このような介護に苦労してきた方に対して「それは虐待だ!」と声を上げて糾弾したり罪を問うことが良いのか?

いや、そもそも高齢者虐待を社会問題にしたのは、このような虐待行為を糾弾するためではないはずだ。

となると、虐待を「確定」だの「疑い」だのという区分けがおかしい。

その区分けをするならば、まずは「虐待はやってはいけない」と喧伝するよりも「なぜ虐待をしてはいけないのか?」という根本が求められる。

もちろん、これは難しい問いだ。「暴力はなぜ良くないのか?」と同義だからだ。この手の話をすると、スポーツや格闘技としての殴る・蹴るもダメになってしまうという議論の脱線が起こる。

高齢者虐待防止法が制定されたり、高齢者虐待に係る指針づくりが義務化されたりと、虐待防止のための社会的認識と基盤は広がっている。

しかし、それは安易に善悪で区分けして罰するためのものではないことは言いたい。性善説や性悪説を説くものでもない。

では、虐待に関する制度や法令は何のためにあるのか?

私の個人的な意見ではあるが、それは「抑止力」であると思う。

それは「ダメなものはダメ」という意味ではなく、社会的にNGとする行為を定義することで、自分の行動への振り返りと気づきにつなげることに意義があると考えている。

そのため、虐待行為の確定または疑いの場面を見て、「あれは虐待だ!」「いけないことをしている!」「罰するべきだ!」と騒ぐのではなく、なぜそのような行動に至ったのかも踏まえた検証をすることが、本当の意味での虐待防止であり、対象者双方の心身を守ることにつながると思う。

・・・それとも、このような考えはやはり甘いのだろうか?


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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