不登校であることは不幸ではない。
偶々学校ではなかった子ども達
「学校が苦手な子どもと保護者の居場所づくり」と題して、様々な事業をしてきたが、どうも学校が苦手な子ども、というのが最近はしっくりこない。
今日、帰りがけに突然、「偶々学校というシステムに馴染めなかった子どもたち」なんだなぁ、とわかった。
学校でないところでは輝ける子どもも、学校や教室という場所では難しい"だけ"の子どもだったんだ、と気づいた。
しかし、不登校であることは不幸なことではない、と言いたい。以下それについて考えを述べていく。
不登校の状態と類型について
不登校についてのメモ自分の息子が不登校でその周りの保護者やセミナーなどをみての経験則。
不登校はみな状態である、とみている。
不登校の類型
その中にも多様な状態があり、幾つかの類型に分けることが出来そう。
不登校の類型
例えば、
①学校に行かない
②学校に行けない
③学校に行きたくない
①は、学校自体のシステムに馴染めない子ども
②は、学校の友人関係などは好ましいものだけど、学習面の遅れなどにより、行けなくなった子ども
③は、いじめなどの原因により学校に行くこと自体が難しい。
などの分け方もあるかも知れない。
類型に関しては再度整理したいところではあるけれども、十把一絡げにして論じる方が危険も感じる。
変化の状態が激しい子どもを類型に押し込めることにより、成長の可能性を押し込めてしまう可能性もあることは十分留意しなければならない。
類型を分けずに解決策をとる危険性
かといって、「学校に行くこと」のみがゴールという教師や不登校ビジネスは論外としても、大人が学校か学校以外かの選択肢しかなくしてしまうと、フリースクールのような学校以外の場所(もしくは教室以外の場所)を作ったことだけでで大人が満足してしまい、目の前にいる子どもの姿が抜け落ちてしまう。
学校での学習が出来ないからと言って、学びを放り出してもいけない。学び方は幾通りもあるが、但しコストがかかることが難点。後述するが、今の時代学び方の幅はかなり広がっている。
我が子は特別?
ここで、子どもを類型にはめてしまう危険性も述べておきたい。
最近はギフテッドという言葉も定着し、「不登校?、だったらギフテッドじゃない」、「うちな子はギフテッドだから、学校に行かない」と原因を才能に求めて安心しようとする保護者がいるが、それは間違いだと思う。
ギフテッドでも学校行っている子どもいるし、学校に行っていない子どももいる。ギフテッドはその子の特性であって、不登校の原因ではない。
色んな不登校の保護者と交流のなかで、不登校の原因を1つには出来ないどころか、原因はその子その子で様々である。
しかし、原因という過去ではなく、現在の子どもに向き合ってみたら分かる。いじめだったり、学習障害、先生と合わなかったり、とあるが、今現在学校に行っていないという意味では、みんな同じ不登校なのだ。
つまりは「不登校」というのは、問題でもなく、トラブルでもなく、状態なのだ。偶々学校が苦手だったのだ。
しかし、「不登校」という状態を原因という視点ではなく、変化として捉えるとまた違った見方ができる。
多くの子どもが学校に行く社会の中で、「学校に行かない」ということを選んだこどもが、「不登校」という状態にいる。
そして、もっとも強調して言いたいのが、それがポジティブな決定にせよ、ネガティブな決定にせよ、子ども自らが学校に行かない(行けない)選択肢を自ら選び、勇気を持って周りとは違うと立ち止まったのだ。
ここから、学校に戻る子どももいるだろう。またフリースクールを選ぶ子どもあるだろう。
また引き篭もり続けて、小中高とクラスメイトと仲良くすることよりも自分の好きな道を探しだすことに注力する子どももいるだろう。
いずれにしても「不登校」という選択肢をしたならば、時間がかかったとしても、自分の道を自分で決めなくてはならない。
同一の進度、一直線で良いのか
少し学びについて話を戻してみたい。
教室で一人の教師が教室全員に教えるシステムについては、合理的で効率的である。また社会へ子どもを巣立たせる1つのよく出来たシステムで、そこを否定することは、学校で輝ける子どもを否定することになる。
また、効率よく学習出来る子どもをあえて「時代ではない」として、不登校スタンダードな学習を押しつけることで、かえって人的リソースが削がれてしまう(一対一が必要な子どものフォローが出来ない)
片方で、同一の進度、一直線なことで良いか、については立ち止まって考えたい。
英語が得意な子どももいるし、理科が得意なこどもいる。英語はもう中学卒業程度の学力がついてはいるものの、理科は小三程度の子どもいる。
個性を伸ばす、ということで英語だけやれば良いということでもないが、英語がAで、理科がCということでも悪いこともない。
義務教育程度の学力が、18歳までについていれば良いのではないだろうか。18歳までに、英語が大卒。理科は中卒で評価C、で十分ではないだろうか。
ある程度まで行くと、文系でも数学(もしくは数学的思考)が必要となってくる場面もあるし、理系でも文系的説得力があると社会で抜きん出ることもある。なので義務教育での網羅する程度の知識(あるいは認識)はもっていて損はない。
しかし、損はないが、必須なのだろうか。
義務教育を単位制にする
義務教育で単位制にすることは出来ないだろうか。
結局、中学3年生までに、獲得しなくてはならない学力とは何だろうか。
自分の経験則で申し訳ないのだけれども、中学卒業程度の学力を全般的にもっていなくても、十分社会では生きてはいける。
“だがしかし”、である。中学卒業までの知識を広範にもっていると、生きやすくもなる。何よりも共通言語の幅が広くなり、相手が何の話をしているか、相手の話のバックボーンが理解できるので、より広い人との交流ができ、幅が広がる。幅の広がりは、人生を豊かにもする。
すべてがオール5を目指すのではなく、5があったり、3があったりしても良いのではないか。
もっと言えば、自分が1である分野は何かを、つまりは弱点を知っている方がより重要ではないだろうか。
保護者の労力
子どもの学びを止めさせてはならない、とはいうものの、これを保護者一人でまかなうのはとてもハードルが高い。しかし人的リソースとして子どもに向き合える時間がとれるのは保護者が一番。子どもの理解を知れる一番の身近な人だ。
とはいえ、家事や仕事などでも時間がつぶれ、学校に行っている子どもに比べると、逆に時間がとれなくなるという現実もある。(学校に行っている間に夕食の買い物をする、という時間がとれなくなる)
子どもの成長と将来について
学びとは、自ら知識を得る手段を習得する方法だと考える(ここでは、人間関係ということは側においておく)。
自らの学習方法(ノートの作り方、本の読み方、ものの書き方)を取得しさえすれば、あとは放り出すことができる、というかココがゴールと思う。
先述した今の時代学び方に、生成AIを使いこなせる、というのも学習方法だと思う
英語学習においての生成AI
プログラムを学ぶことと生成AIは親和性が高い。
プログラムの学習に際して、実際にプログラムのコードを書くことが一番の近道。object志向のプログラムではなくても、他人が書いたコードをコピペでもブログラムが走れば良い。
昔は、先人達のプログラムを丸写しして、呪文を覚えるかのようにプログラムを学んだ。
実際にプログラムを生業にすることは別として、プログラム学習自体には、生成AIはうってつけの分野だ。
自分が分からないコードの意味を生成AIに問い理解する。
その理解を元にコードを書いてみる。プログラムが走らなければ、すなわち間違いだし、走れば正解。どこかにバグがあれば走らない。
英語学習でも同様に、AIに分からない文法を入力すれば解説してくれる。その精度に対しての信頼性を議論するところはあるだろうが、とはいえ、教師にそれだけの信頼性が確保されているのか。
whomもそうだけど、文法的には正しいが、あまり使われないことを、さも重要な文法だとすることにも疑問がある。
それにゴールはどこか
英語学習においてゴールを設定することはかなりハードルが高い。日常会話を重視ししてゴールとするならば、ネイティブと茶飲み話が出来れば良い。
ビジネス英語もしかり、ビジネスで困らないワードやセンテンスをしっておけば良い。
しかし、英語は手段で、ビジネスするのにもセンテンスだけでは使い物にならないし、自分の分野(例えば自動車会社では自動車の部品の名称やその機能について説明が出来るようになっていなくてはならない)
逆にいうと、自動車についての説明が出来れば、それで十分ではないだろうか。
先に述べたように、学びとは、自ら知識を得る手段を習得する方法だと考える。しかし、それは「何が理解できて、何を理解できていないか」かを知ることが学びだ。
だけれども、保護者にしても、先生にしても「この子が理解できているか」を自分で知っているか、たとえテレパシーがあったとしても真の意味で分かる大人はいない。
それは一斉事業で獲得できる子どもいれば、一対一しか獲得できない子どももいるがその理解のための手段(ノートの書き方にしても、ものの書き方にしても)については教えたり、導いたりすることは出来る。
自分事で恐縮だけど、私はかなり字が汚い、早く書こうとすると判読ができない、逆に読めるように書こうとすると人の倍は時間がかかる。多分視線の動かし方とワーキングメモリが足りなかったためだろう。
小学生のときは、自分は社会では出世できないだろうな、と覚悟していた。
しかし、ワープロが出来たおかけで、その欠点は欠点ですらなくなった。
昔は黒板とノートしか手段がなかったが、パソコンとiPad、または音声や動画での記録や整理ができる。それだけでも、学習の幅が広がっている。自分にあった手段で、学びを進めていけば良い。
問題は「何が理解できて、何を理解できていないか」かを知るということだ。
不登校という状態
また不登校という状態について話を戻してみたい。
不登校には、原因があったりなかったりするけども、不登校という“状態”という意味では、同一に扱うことができると思う。
この期間にどのような成長をみせるのか、に視点を移して欲しい。不登校という状態は多くの困っている保護者が体験してこなかった経験だろう。
つまりは、自分の経験則では測れない人生を子どもは歩んでいる。「自分が中一のころは…」と教えることが出来ない状態である。
しかし、視点を変えて見てみると、チャンスではないだろうか。
子育ての究極の目標は、子どもの自立だ。自分で生きられるようにするのが親の務めだ。しかし、実際には子ども自分の分身ではない。おおくの保護者は、子どもの反抗期を通じて、子どもが自分から離れていくことを知る。
文化人類学的にいうと、通過儀礼なのだ。
通過儀礼とは、〝分離〟〝過渡〟〝統合〟というプロセスを経て,子どもから大人になっていく。子どもというカテゴリーから離れ、一旦非日常というプロセスを経て、また再び大人として社会に統合していく。
この儀礼を通じて、親もまた子どもと分離して、大人=別人格として扱うようになる。私はこの〝過渡〟の時期が反抗期と考える。
しかし、不登校というのは、かなり早くに、不登校という〝過渡〟の状態に移行した早熟の子どもではないだろうか。
早熟な故に、まだまだ保護者の助けは必要なことは確かだけれど、学校から離れて〝過渡〟の状態に移行したのは、戸惑うことではあるか、保護者にとって社会に出る通過儀礼を受け入れる必要がある。
早くして、子どもを一人の人間として向き合えるようになるチャンスではないだろうか。
〝分離〟の時期を社会的なシステムとして与えてくれる文化もある。しかし、今の日本では〝分離〟を自ら気づくしか方法しかない。多くの子ども達は思春期の中でそれに気づく。そして、「自分何者なんだろう」という〝過渡〟の時期を反抗期として過ごす。
しかし、不登校の子どもは、学校での違和感によって〝分離〟が始まる。そして家で引きこもる形で〝過渡〟の時期を過ごす。
この〝過渡〟の時期で、「自分は何者なんだろう」つまりは「何を知っていて、何を知らないか」に気づく。
不登校はあまりに繊細で、また集団として〝過渡〟を経験出来ないことが多く、その中で傷ついてしまう子どもも多い。
トンネルと共有体験
不登校はトンネルの中、と表現されることも多いが、トンネルの出口は多様だ。しかし、みなトンネルの中にいることは確か。
出口の模索は必要だけども、まずはトンネルの中にいることは共通だし、共有できると思う。トンネルの中にいる者同士、一緒にいることは可能だと思う。またそこでの共有体験も子どもにとってだけでなく、保護者にとっても大切。保護者同士のつながり、共有体験を持つことで、保護者自体の社会を形成して、〝過渡〟の時期の子どもの理解にもなる・
この〝過渡〟の時期を、孤独な家庭の中でなく、同じ悩みを持つもの同士で共有、共感をして居場所づくりが出来ないか、と思っている。
でも、保護者が出口戦略でマウントをとってもダメ。だって色々な子どもの出口があるのだから。
不登校は不幸ではない
ヤフーのニュースを見ていたら、こんな記事があった
「不登校の子は不幸じゃない」って、パパママも社会も本気で思って。
普通のレールに乗らない不登校に直面すると、保護者は自分の経験則にないことに戸惑ってしまうだろう。実際私も戸惑ってしまった。将来の心配、学力の心配をしてかなり落ち込んでしまった。将来この子は生きて行けるのだろうか。何よりも引きこもりになって、一生家からでないのではないか、と不安と恐怖に捉えられてしまった。
うちの子どもは
うちの子どもは小学校2年生からずっと完全な不登校で、家に引きこもりきりになって、ゲームばかりしている。最初のころは不安ばかりで、学校に行けない、行っていないことばかり目についてしまっていた。
最初は学校に行かない原因ばかりを探す対話をしていた。
しかし、そのうち「うちの息子は何を考えているのだろう」「ゲームのどこが面白かったんだろう」「旅先でどんなことに関心を持って、何を楽しいと思っていたんだろう」というところに目が向くようになってきた。
自分と感動ポイントが全く一緒で「やっばり?そこ?楽しいよね」と思うこともあれば、当然「えっ、そこ?」「そこが笑いのツボ?」「そこの感動するか〜」という新しい発見も、自分自身で楽しくなってしまった。
また、1年前は、怒られると泣いて部屋に閉じこもってしまっていたのに、「悪いと思って…」と皿洗いを手伝うようになっていって成長を感じられていくところに感動してしまったり。
友だちとゲームをする中で「アシスト、ナイス〜」、「助けてくれてサンキュー」とかネット越しに会話している姿を見ると、自分では恥ずかしくて言えないけれど、自然に言葉に出せる子どもに尊敬もしてしまう。
子どもを一人の人間として
自分のレールとは違った道を歩み始めたと不登校を捉えられるようになって、自分の子どもを一人の人間として早い段階から見られるようになった。
もちろん、その幼い行動や頑固なところに、苛立ちを感じることは多々あるし、やはり注意や怒ったりすることはあるが、必ず「パパはこう思う」という枕詞をつけることで、なるべく対人間として話すように心がけている。(もちろんいつも大人な対応ができる訳ではないが、こんな人間(息子)に嫌な気分にされた、と感じるようになった)
何よりも、考え方、笑いのツボ、他人との接し方、成長、自信の持ち方etc自分の息子はいろんな意味で〝面白い〟と感じ、見られるようになった。
学校に行かないという選択を自分自身で選んだことで、早くから社会から〝分離〟し、〝過渡〟の状態に入り、大人への一歩を踏み出せることが出来た。
この自ら学校に行かないこと選んだことを親子共々認めると、一人の人間として認める第一歩だ。
不登校は不幸なことではなく、自ら声を上げた立派な者ではないだろうか。そして、このような声を拾いあげられて、一人の人間として向き合えるチャンスを得られたのは、保護者にとっては幸運な事態である。
不登校は不幸ではない。