ジャンポケ斉藤事件に見る西田哲学の道徳の必要性。
ジャンポケ斉藤事件に見る西田哲学の道徳の必要性。
フワちゃん、斎藤元彦知事、ジャンポケ斉藤と、著名人による不祥事が絶えない。
中でも県職員が自殺したにも関わらず、県知事の座を譲らなかった斎藤元彦氏の不祥事は皮肉にも、戦後一貫して道徳を否定してきた朝日新聞を始めとするマスコミにも道徳の必要性を知らしめた。
したがって成人に対する道徳教育は必要であるが、フワちゃんが不祥事を起こしたからと言ってヒカキンにも道徳を押し付けるわけにはいかないし、ジャンポケ斉藤が起こしたからと言ってバナナマン設楽にも道徳を押し付けるわけにはいかないのが道徳教育の難しいところではある。
道徳とは、唯物主義と心理学一色の戦後日本では全否定されているが、高校の倫理科で修めるように学問と同じ知識でもある。
但し、知識と言っても、知っているだけでは不十分で、知識を実践して己の行動規範とする必要がある。
しかし人の内心には踏み込めないのであって、むしろこちらの方が難しい。
ヘーゲルは「思いあがった個は社会によってしつけられるべきである」としている。
無論、押し付けではなく、デュルケムの言う道徳による説得が如く、1+1=2のように頭で理解させ、訓育して諭すことが重要だ。
日本では全く注目されていないが、理性的な道徳というのが哲学・社会学・社会思想の領域には存在する。
私は「絶対に必要な100の道徳」という本の出版を目指しているが、まずは「ジャンポケ斉藤の不同意性交」をテーマに、日本で唯一名の通った哲学者である西田幾多郎の道徳を紹介しよう。
被害に遭った20代女性は「許すことは絶対にできません」としており、ジャンポケ斉藤の芸能界復帰は不可能となった。
これは道徳なき日本において人を人とも思わない風潮が蔓延しているためである。
―とは言っても、日本人は元来、謙虚で親切であり、社会全体を見渡せば、8割がた善良で、一般人には親切な人が圧倒的に多いのであるが、タレントや政治家、官僚、組織のトップなど、社会的地位が高い人ほど道徳がない。
そのため、これらの愚かな頭の悪い人たちだけがマスコミに注目されて、日本をミスリードしているのである。
まず人はジャンポケ斉藤のように「人をモノ化してはならない」。
これはマルクスが『資本論』で言うところの「人間疎外」であるが、西田の道徳を見てみよう。
ヘーゲル哲学研究の第一人者でもある西田はこのように説いている。
これはいわばバタイユがヘーゲル哲学を評価した一つの理由であるヘーゲルの「主人と奴隷」のたとえであろう。
ヘーゲル哲学においては西田もバタイユと同じところを見ていたと解釈することができる。
「決して手段として用うる勿れ」はわかりにくいが「モノ化するな」の意である。
企業で能力のある人材を雇用することはどうしても「手段として用うる」ことになってしまう。
無論、企業で即戦力として働いてもらうことと、ジャンポケ斉藤のように20代女性を仕事の休憩中のロケバスでの性奴隷として扱うことでは全く意味が違う。
したがってそこに「他人の人格を敬す」という道徳があるか否かである。
そもそもロケバスという公共の場で性交すること自体が犯罪であり、犯罪者である。
だが、お笑いタレントが公共の場で性交するという事例は「アンジャッシュ」渡部建の「多目的トイレ不倫」もあった。ジャンポケ斉藤も不倫の常習者であるという。
だが、今回の事件は、いかに斉藤の奥さんが謝罪しても犯罪であり、全く関係ない次元の話である。
男の性的な衝動は抑えられないことも間々あるが、他人を性奴隷という手段、つまりモノとして扱うことで彼はすべてを失ってしまった。
ニーチェの「ツァラトゥストラ」で言えば、斉藤の人生のすべての時間の中で、例外的な短時間の犯罪行為だけですべてを失ってしまうことになる「顔面蒼白の犯罪者」である。
ところで私は聖パウロやスピノザの道徳である「赦(ゆる)しの心」をモットーとしているが、この場合、ゆるすのは私のような第三者や世間ではなく、第一に被害女性であり、ゆるされることは未来永劫ないのであって、ジャンポケ斉藤のように他者の立場に立って物を考えることができない、日本の社会的地位が高い層では大多数のタイプの人間は、犯罪者としては取り返しがつかないことになる。
もちろん、性的な問題で大々的に取り上げられた保守論客の人が言論界に復帰されているケースもある。
ゼロとは言わない。
だが、ジャンポケ斉藤には道徳教育が必要だった。
日本社会にはジャンポケ斉藤のように、道徳教育が必要な道徳的確信のない成人が潜在的に多く存在する。
このように狂気が近隣に潜む日本社会の今日の社会規範の脆弱さが児童虐待を激増させてもいる。
「絶対に人をモノ化するな」。
私がここで書いた西田の教えを身につけるだけでは足りない。
道徳や宗教倫理と縁遠い大半の日本人には、他者をモノ化しようという思いが少しでも胸をよぎる。
ヘーゲル哲学においてよく出てくる、この「他者をなきものにする」という思いという「敵」は未熟な精神という己の中に存在する。
社会にあっては、各人の心にある「他者をなきものにする」という思いは殺されなければならない。
なぜか?
社会においては、他者をなきものにすることによって、即、己が社会によってなきものにされるからである。
日本人はこの己の中にあるおごった心を殺せ。
まして法治主義と民主主義の社会では、思いあがった個ごときが社会を破壊することなど決して受け入れられない。
なにしろ日本には道徳教育という概念がない。
子どものころよりしつけられていなかったり、挫折したことのない人たちは要注意だ。
日本人はこの己の中にあるおごった心を殺せ。
児童虐待をする親もそうだが、なぜ日本にはそのような心のある者ばかりなのか。
あなたが人生の話を始めるのはそれからだ。
他者を尊重できない、他者をないがしろにする心の、言い逃れとしてのその場しのぎの付け焼刃の取りつくろいなど、何の意味も持たない。
日本のクソみたいなネットではオタクが描いたきわどいエロマンガの広告がそこかしこに存在する。秋葉原もそうだが、それが日本の低俗さである。それが海外から評価されているというなら、LGBTQなど倒錯した無哲学・無思想な、あるいは反日的な政治的陰謀による人権主義左翼による人類そのものの人としての最低限の道徳倫理の破壊である。
道徳とは、ヘーゲル哲学やデュルケム社会学でいうところの普遍的な「社会性」でもある。
道徳のない愚かな日本の特権階級は、愚かなことにこの社会性を知らずに、1億分の1のヒューマニズムに過ぎない能力開発プログラムや主観的な哲学だけで事足りると錯覚する。
だが、違う。
西田幾多郎の「善の研究」の続きを紹介しよう。
つまり人間の要求、欲求とは「承認欲求」であり、社会的成功を収めることであり、他愛、つまり他人、男性であれば、女性から愛されることである。
永遠に自足自給で無人島に住むのでない限り、日本社会に住まうのであれば、人間は社会的にならざるを得ず、ほとんどすべての人が社会的成功を追求し、利益を追求して富を得るにしても、道徳を最も重視する渋沢栄一が強調するように、社会的信用がなければ成り立たず、成功の前提がすべて社会からの評価で成り立っているのである。
論証以上。
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https://youtu.be/2hKXuByNkcg?si=Ku9CRhIiEld0dn2h
YouTube「ジャンポケ斉藤事件に見る西田哲学の道徳の必要性。」
/ 高澤 一成 「真の哲学者とは」
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