『大地の恵み、優しさの恵み』~欲望のポテトサラダ~
…あと1分。…あと30秒。
タイムアタックのように残り時間を意識しながら集中して作業を進める。
キンコーン、キンコーン。
卓上のデジタル時計は、日本標準時ではなく職場のチャイムにぴったり合わせてある。
よし、終わり。
今日できる限りの仕事を最後の最後まで追い詰めるように押し込めて、この日の業務を終えた。
PCをシャットダウンして、散らかさないよう心掛けているデスク回りを手早く片付けると、一刻も早く帰りたい私は「お疲れさまでした」と声を出して席を立つ。
目も合わせず「…さま~」と山彦のように所々から発せられる返事を聞きながら、フロアを後にした。
ビルの上階にある職場を出て、内階段を降りる。
階を降りるごとに、同じように定時で会社を出る人波が合流して増えていく。
「サキさん」
後ろから呼ばれて振り返ると、みんなから"ワカちゃん"と呼ばれている後輩社員が私に人懐っこい笑顔を向けていた。
従業員が100人に満たないこの会社は、伝統的にお互いを愛称で呼び合っていた。
創業当時からいる山本部長は「ヤマさん」。
「マッちゃん」と親しまれている事務員の松田さんはすでにお孫さんもいる年代。
小林さんは3人いるので「トシオさん」「アイちゃん」といった具合に下の名前で区別される。
そして私は「サキさん」や「サキちゃん」と苗字の一部で呼ばれる。
就職して数年がたった今も、お互い身内アピールするような社風に実はまだ馴染めていなかった。
自分だけがはぐれ者のような気がして、同調的なこの空気から一刻も早く立ち去りたいというのが本音だった。
でもこうして直接声をかけられては仕方ない。
「どうしたの」と後輩に返事をする。
ワカちゃんは私の気も知らず近寄ってきて「サキさん、キュウリいりません?」と聞いてきた。
キュウリ!
「いる。」
私は眼鏡をキラリと光らせて即答した。
従業員用玄関の横に、倉庫の入り口がある。
たまに人が出入りするのを見かけるだけだったそのスペースに、ワカちゃんの後について初めて足を踏み入れた。
想像通りの資材置き場のような雑多な空間の合間に、冷蔵庫があった。
ワカちゃんは躊躇いもなくその扉を開ける。そこには当然だけど冷蔵が必要な物が収められている。
ビニール袋や紙袋の合間にペットボトルや紙パック飲料、プリンやヨーグルトまで。それぞれにマジックで名前が書かれていて、なんとご丁寧に冷蔵庫の上には記名用のマジックがちゃんと備えられていた。
従業員が自由に使える冷蔵庫の存在なんて知らなかった。
社内コミュニケーションの希薄さがじわりと身に染みた。
慣れた手つきでワカちゃんはその中からスーパーの袋を一つ取り出して、「サキさん、これです」と私に差し出した。半透明のビニール袋の中には10本近いキュウリがずっしりと入っていた。
キュウリに目がない私は浮かれた気持ちを抑えながら「これ全部いいの?」と袋を受け取った。
「いいんです、他の誰ももらってくれなくて。助かります!」と、聞き様によっては少々失礼な言い方をして、ワカちゃんはまた無邪気に笑った。
8月。
梅雨が明けて一気に夏の日差しを浴びるこの時期は、どこの畑でもキュウリが一斉に実る。
収穫しないとあっという間に成長しすぎてしまうし、収穫したらしたで早く食べないと傷めてしまい、もったいない。
こうして大量のキュウリが個人の間で出回り、野菜好きの私はその恩恵にあずかることになる。
定番ポテトサラダの調理
県内外にファンの多い地元スーパーのビニール袋に、つい目が向いてしまう。
ポイントが貯まるお買い得スーパーばかり利用する私から見れば、家計にちょっと余裕がある人が使う一ランク上のスーパー。もちろん卑屈になったりはしませんとも。
トゲの痛さに新鮮さを感じながらキュウリを洗って、スライサーで輪切りにすると塩をまぶして、しんなりしたらギュッとしぼる。
同時進行でジャガイモの皮をむき、厚さ7~8mmほどの輪切りにしたら水にさらした後、水から火にかける。塩をひとつまみ。
フォークが通るほど茹でたらお湯を切って、フォークで粗めに潰す。
そして冷凍コーンを混ぜる。
ポテトの粗熱が取れてコーンも解凍される、一石二鳥。
すべての具材が揃ったら、油を切ったツナ缶を合わせて、マヨネーズで和える。
完成!
味見と称したつまみ食いなんて当たり前。
キッチンに立ったまま、まだ暖かいポテサラを一口。そして冷えたビールをプシュっと開けて味わう。うまっ!
野菜と炭水化物とタンパク質と油分をまとめて摂取できる、欲望のポテトサラダ。手間が惜しくないほど大好物なのだ。
■アレンジいろいろ
ポテサラアレンジの定番といえば、サラダ用パスタ。
ストロータイプは中に水が入るので、我が家ではクルリと巻いたタイプが常連。
かさ増しにもオススメ。
続いてもアレンジ定番、ゆで卵。
丁寧に切ってもいいし、フォークで手軽にざっくり潰してもOK。
すぐに食べ切るのなら半熟気味にするとまた格別の味わい。
カニかまの赤は彩りにぴったり。
もちろん味も盛り上げ要員として貴重!
ハムやカリカリに焼いたベーコンも味わいをプラスしてくれる存在。
あらびき黒コショウをまぶしておしゃれに。
そして長野県民なら、ホモソーセージ!
かさ増し具材としても超優秀で、お子さんのいる大家族にもピッタリ。
ケンミンショー的に、パクリ!と口いっぱいに頬張って。
秋になればリンゴや柿(甘柿)、あとたまに干しレーズンで独特の食感と甘味の追加。
おかずに果物を入れるのは賛否あるのでお好みに合わせて。
好きなものだけを好きなだけ入れて作る、欲望だらけのポテトサラダ。
■キュウリアレンジ
ポテサラで消費しきれないほど大量のキュウリは、別の調理方法で消化。
新鮮なキュウリは、スティック状に切っていくらでも食べられる。
味噌マヨディップは手軽さと満足度のコスパ最高!
冷蔵庫で寝かせるだけの浅漬けも手軽でオススメ。
これまたビールに合う!
もちろん、お弁当の一品にも。
そうめん、冷やし中華、冷やしそばなど、夏ならではのメニューにも活躍するキュウリは万能野菜。
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後日、チョコレートが美味しいケーキ屋で買ったオランジェットの小さな包みを持って出勤した。
ワカちゃんがスイーツ好きなのは聞いたことがあったし、この量なら多分、お礼としても重すぎない。
真夏の気温は夜になっても下がらないまま、翌朝の日の出とともにまた一気に上昇する。
人がまばらな朝の職場は冷房が入ったばかりで、フロアに入ったとたんにムワッとした熱気が襲ってきた。
今の時期にチョコレートはまずかったな、と思った直後に、知ったばかりの冷蔵庫の存在を思い出した。
ケーキ屋のパッケージを隠すように茶封筒に入れて、私は下駄箱横の倉庫に向かった。
冷蔵庫の前にかがんだ先客の姿が見えた。
「あら、サキちゃん、おはよう」
手荷物をまさに冷蔵庫に収めようとしているのは、事務員の松田さんだった。
「まっ、つださん」
とっさに言葉につまづいた私は気まずい表情を隠すようにぺこりとお辞儀した。
それほど接点があるわけでもない相手で、しかも年上に向かって愛称で呼ぶのはやはりどうしても慣れない。
備え付けのマジックで茶封筒に自分の名前を記名すると、手で袋を抑えてくれている松田さんの荷物の横に滑らせるように入れた。
ワカちゃんとは帰りに会うだろうから、その時に声をかけて渡そう。
倉庫を出るまでの沈黙を破るように松田さんが「まぁ、」と声を発した。「それぞれマイペースでいいと思うわぁ」
名前を呼ぶときの緊張が伝わっていたのだろう。語尾を少し上げる特有のイントネーションから伝わる優しさは、私の肩の力を少し抜いてくれた。
「ところでサキちゃん」松田さんが続けた。
「キュウリいらない?」
終(2959文字)
【あとがき】
実際の頂き物野菜と調理を元にした、創作ストーリーです。
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