全体的。統合性。
アレクサンダーさんははっきりと
解剖学や生理学はいらないと言っている。
それらは全体を部分に分け結果を統合する形で
もう一度全体を考えようとしているからだ。
私たちアレクサンダー教師が見ているものは、
生きている人間なのであって
部分を組み合わせたものではない。
解剖学や生理学が役立たずだと言っているわけではなく、
生きている人間全体として見る時には
不適切なものの見方だと言ってるだけです。
アレクサンダーさんがいらないと言った理由に、
その学問を研究している学者が、
それぞれの知識を自分自身に活かしていないことが
学者本人を見てわかったからということが大きいと思います。
人間について実は何もわかってはいない。
未だにわからないことばかりです。
なぜ転ぶことなく立てるのか。
こんな簡単なことさえわかっていない。
もし分析することで立てているのだとすれば、
脳はあらゆる筋肉にどれくらいの緊張をすればいいのかを
逐一指示し、刻一刻と変わるバランスにも対処することで、
ようやく立つことができるはずです。
私たちはただ立とうと思えば立ち上がることができるし、
そのまま立っていようと思えば立ち続けることができる。
人間は全体で機能しているのであって、
決して部分がより集まってできているのではありません。
分けることさえできない。
部分的不調が有機体という人間全体への干渉を生んでいる。
不調をきたしている部分の不適切な動きが
全体に影響を与えている。
アレクサンダーさんは、これを発見した。
とすれば、部分でやっていることをやめる必要があり、
部分が全体に干渉するのをやめる必要がある。
そうすることで全体の働きを良くする方向に持っていこうとした。
その過程で正常な状態を回復することができ、
その回復した状態を維持することができるように
テクニークを開発することができたんです。
不調や痛みなどの症状は、
全体が少しずつおかしくなり
部分が肩代わりをすることで
不調になったり痛んだりしている。
(多くの場合に当てはまります。)
と言うことは、各部分の話ではなく
全体を整えることで回復が見込めるということです。
レッスンの過程で部分を見ますが、
このとき間違いが起こりやすいんです。
私たちは部分を分けて考える習慣が染み付いています。
全体の中の部分だと思っているようで、
まだまだパーツとして独立してみてしまいがちです。
解剖学や生理学的に分析することで
動きが良くなると言うのは、
部分が全体に与える影響を無視しています。
腕一つ動かしただけでも、全体への影響があります。
全体で動いていると思っていても、
実は分けて考えているのですが、
なかなかそのことに気づきにくい。
分けて考えることを加速させるので、
解剖学や生理学はいりませんと言ったんでしょう。
1940年頃にはすでにこういう懸念があることに驚きですよね。
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