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価値観と好きが人生を開く/「空飛ぶ写真家」前島聡夫さんから学ぶこと

 一昨日、イタリア人の名物ラーメン店主、ジャンマリオーリ・ジャンニさんの半生から「キャリア形成について分析的に詳しく考える必要はないかもしれないが、自分の価値観と自分が好きなことからは外れない方が良い」という教訓めいたものを引き出しました。
 ただ、あの時は、研修講師・教材制作者の習い性で、「完全な確信には至らないまでもともかく言ってみました」的な部分もありました。しかし、その後、noteで、あの教訓には間違いがないと確信を深めさせてくれる記事に出会いました。それが、前島聡夫/空飛ぶ写真家 |note さんの『私の写真半生』です。

【記事1】

【記事2】

【記事3】

【記事4】

前島さんがプロ写真家として独立するまでの歩みは波乱万丈ですが、その歩みを支えたのが、前島さんの価値観と好きでした。



1.友だちつくりから映像へ

 
 中学時代、前島さんは、お父様の仕事の関係でサン・ディエゴに住んでいました。アメリカ人との交流を増やそうとアメリカ人の友人ケリー(男)を、彼がランチを食べている教室に訪ねます。

 すると、その教室ではロボット関係の授業が行われており、隣の教室では映像制作の授業が行われていました。ケリーはロボットと映像の部活に参加していたのです。前島さんも両方に参加しますが、家にカメラが沢山ある環境で育ったこともあって、特に映像制作に興味を持ちます。

放課後、学校で行われるバスケットボールやアメリカンフットボールの試合をライブ配信するという活動に取り組む中で、私は映像制作の魅力に引き込まれていきました。これ、意外と難しいんです。相手の動きを先読みしてカメラをパンしたり、選手がするフェイントの動きにも引っかからないようにしなければいけません。なぜかわからないのですが、自分はカメラとすぐ友達になり、うまく操作して追いかけることができました。

【記事1】から抜粋

 友だちづくりを思いたって声をかけた相手がたまたま映像制作の部活をしていて、そこから映像に興味を持ち、また、映像制作の才能を開花させたのです。

2.映像から写真へ

 お父様の任期満了にともなって帰国した前島さんは、滞米時のような映像制作ができる環境からは離れますが、その代わり写真撮影のアルバイトを始めます。ここで、前島さんは「自分が本当に好きなこと」に気づきます。

写真を始めたのはアメリカでの映像がきっかけではありましたが、アルバイトをしていく中で自分は「カメラをうまく使いこなして撮る」という行為自体が好きであることに気づきました映像でなくても、写真で自分がやりたいことはできる。どんどん写真にハマっていきました。

【記事1】から引用/太字化は楠瀬

 写真とアメリカ時代に得意だったスポーツ中継。この二つが結びついて、前島さんはプロのスポーツ写真家を志すようになります。


3.スポーツ写真から写真全般へ

 前島さんは、プロのスポーツカメラマンを目指して入学した東京工芸大学芸術学部写真学科で、より幅広い写真の魅力に目覚めることになります。

入学当初は、ただスポーツを上手く撮れるようになりたいと考えていましたが、写真で何かを表現することの面白さや奥深さを知ることになりました。大学は写真家を育てることに重きを置いており、私もその影響を受け、次第にスポーツカメラマンになると熱量は、写真で何かを表現することにシフトしていきました。

【記事2】から引用/太字化は楠瀬


4.クリエイターとしての生活信条の芽生え

 
 様々な写真の世界に触れる中で、プロ写真家としての生活信条も芽生えてきます。

コマーシャルなどのジャンルでプロとしてお金を稼ぐことも重要だと考える部分もありました。好奇心旺盛で様々なジャンルの写真にも興味がある自分。写真のことを幅広く学びたい、そのほうが将来の仕事にもつながるという意識が強かったのだと思います。4年生の研究室ではライティングが学べ、仕事につながりやすいだろうと考え、コマーシャル研究室を選びました。研究室の先生の繋がりでコマーシャルの世界で活躍する方たちとも会うことができました。
コマーシャルでお金を稼ぎつつ、自分の作品も別で作っていく。そいうフォトグラファーになっていきたいと漠然とこの頃から意識していたんだと思います。

【記事2】から抜粋/太字化は楠瀬

 私は、生活信条は、それ自体が重要な価値観だと考えています。人生でどんな高邁な価値を追求するとしても、日々、生活していかないわけにはいきません。自己表現を第一に追求したいクリエイターにとって、日々の生活はもしかしたら制約でしかないかしれませんが、制約への向き合い方も、また価値観の一部です。

5.ある写真家との出会い、そして物撮り(静物写真)へ

 前島さんは、大学4年時にコマーシャル系撮影会社から内定をもらう寸前までいくのですが、「もっと写真を学びたい、写真表現を追求したい【記事2】」と思い、大学院に進学します。
 
 大学院時代に、前島さんは、ある写真展で大きな感銘を受けます。それは、物撮り(静物写真)で有名な写真家の写真展でした。
 そして、この写真家のワークショップに参加することで、前島さんの方向性が決まっていきます。

物撮りの世界について表面的な知識しか持っていなかった私にとって、このワークショップは非常に学び多きものとなりました。
ライティング、背景、見せ方などを工夫することで被写体の魅力を最大限に引き出すことができるのです。しかもその引き出し方にも色んなアプローチがある。どれを選択し、どう突き詰めていくか。そういったことを学ぶことができました。

【記事3】から抜粋/太字化は楠瀬

 前島さんはこれを機に「物撮り(静物写真)」を志すようになり、大学院を卒業すると、この写真家のアシスタントとして働き始めます。ところが、そこで運命が暗転してしまいます。

私の仕事は主に写真塾の構築のための作業で、事務的な作業がほとんどを占めました。さらに、彼は自分のイメージ通りに物事が進まないとすぐに癇癪を起こす人でした。彼のイメージから1ミリでもズレているとすぐに理不尽な怒りがとんできました。
平日は癇癪で何度も何度も怒られ、疲れ果てた状態で帰宅。そこからワークショップの予習写真撮影しなければいけませんでした。そして土日はフルエネルギーでワークショップに挑む。。。しかも日曜日のワークショップ後は毎回、交流会という名の飲み会がありました。休める時間が、、、ほとんどなかったです。

【記事3】から抜粋

 私の人事経験、研修講師経験に照らして、これは、上司が部下をメンタル不調に追い込むパワハラの典型的なパターンです。この写真家がただのダメ上司なら、前島さんはもっと早くに辞めることを考えていたかもしれません。けれども、この上司は、独りのプロとしては尊敬できる相手でした。部下にとって、こういう時が一番厄介なのです。

今振り返ればかなり危険な環境でした。早く辞めるべきだったと思います。でも当時は「なんとか写真家として一人前になりたい。」そう思っていました。その思いが強すぎたのかもしれません。

【記事3】から引用

前島さんの記述から、前島さんの苦しみが、痛いほど伝わってきます。

6.転職と仕切り直し

 前島さんは、この写真家から離れて「メンタルだけでなく、体にも症状が出始めていたんではないか【記事3】」という状態で就職活動をし、フォトグラファーが比較的多く所属している広告撮影会社に採用されます。

この会社はカタログやチラシの撮影をメインにしていて、撮影量が非常に多いのが特徴でした。会社のスタイルとして、100点、120点の写真を1枚撮ることよりも、80点~90点の写真をものすごいスピードで撮影していくことを得意としており、撮るジャンルも商品、フード、モデル、インテリア、ガーデニングと非常に広範囲にわたっていました。

【記事4】から引用/太字化は楠瀬

 私は、前島さんは「好奇心旺盛で様々なジャンルの写真にも興味がある【記事2】」タイプだったので、この会社のスタイルになじみやすかったのではないかと思います。

 また、物撮り写真家のアシスタントとして撮影準備のために手を動かすことに慣れていたことも、プラスに働いたように思います。前島さんは、こう書いていらっしゃいます。

精神的にも肉体的にも追い詰められる結果となってしまいました。親にもすごい心配をかけたし、迷惑をかけてしまいました。しかし、その経験を通じて物撮りやライティングのこと、他にも言葉にしきれない多くのことを学び、最終的には広告撮影会社に就職することができました。それは本当にラッキーだったと思います。

【記事3】から引用

 前島さんは、この会社で、プロ写真家としての基盤を作り上げることになります。私は職業柄、色々な人の修業時代の話を読んできましたが、その中でも、前島さんの体験記は屈指の面白さです。そして、学びに富んでいると思います。読者の方が飛びやすいように、ここに改めてリンクを貼っておきます。


7.ある写真家との出会い、そして独立へ

 入社3年半くらいから、前島さんは独立を考え始めます。しかし、簡単には決心がつきません。

いつか独り立ちできたらという気持ちがこの頃から強く出てきました。それでも撮影をする度に何かしらの反省があり、まだまだだと痛感する日々でした。「どのレベルまでいけば独立してやっていけるかなんてわからない。でも、もう少し成長したら何か見えるかもしれない」と自問自答を繰り返しながら日々を進んでいきました

【記事4】から抜粋/太字化は楠瀬

 そんな前島さんに、ある写真家との出会いが訪れます。それは、会社の元社員で、短期的な人手不足をまかなうために招かれたプロ写真家でした。

私もその人のいる現場に何度か入ることになり、色々と話すようになっていきました。何かの拍子に、独立してやっていきたいと思っていること、でもどれだけ力をつければいいのかわからない、まだ自信がない、ということを話ました。そしたら意外な返答が帰ってきたんです。「君なら大丈夫。もう十分独立してやっていくだけの力はついていると思うよ。」と言ってもらえました。実際にフリーランスで活躍している人からそう言ってもらえたことは自分にとって非常に大きなことでした。その言葉がきっかけで独立を決意しました。
しばらくして撮影部の部長と相談をして、丁度入社して5年になる新年度を機に会社を離れることになりました。

【記事4】から引用/太字化は楠瀬


 こうして、前島さんは2017年からフリーランスフォトグラファーとして活躍していらっしゃいます。

 最後に、前島さんの次の言葉を引用して、この記事を締めくくりたいと思います。

今でも完璧な撮影だったことは一度もありません。何かしらの学び、反省が常にあります。「もっといい写真が撮れたのではないか」、「もっと満足してもらえる方法があったのではないか」と毎回思います。この思いは一生このままだと思いますし、そうあるべきだと考えています。

【記事4】から抜粋


 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

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